ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

「なんで」 2001.7.1

2001-07-01 08:29:36 | 嫩葉
「なんで」
こういう言葉に出会った。「生きる意味をいつか問われん子を持ちて今日より答えを探す道のり」。長尾幹也という歌人の言葉である。(朝日新聞2001.7.10朝刊、家庭欄) そして長尾さんは次のように語る。
一人息子は4歳である。近ごろ、「なんで」「ど-して」という問いかけをよく口にするようになった。今は単純な質問ばかりだが、「人は何のために生きるのか」という根源的な問いを発する日がいつか来るのだろう。
幼い子どもの発する「なんで」という質問に答えることは非常に難しい。それに比べれば「これ何」という質問に答えることは簡単である。しかし、「これ何」から「なんで」への成長は注目すべきである。なぜなら、「なんで」という疑問を持つことから「考える」ということが始まる。ところが、普通の大人たちは幼児の「なんで」の前でたじろぐ。答えるのが非常に面倒だからである。まず、まともに答えようとすると、その幼子の世界に入り、その子どもの視点に立って疑問を共有しなければ答えられない。たいていはいいかげんに誤魔化してしまう。子どもは敏感であるから、大人の誤魔化しに気付き、質問したことを反省する。それが日常化すると、子どもは自分の中から「なんで」という質問を「悪いこと」として消してしまう。かくして、子どもは「考える」ということをしなくなる。まぁ、これは極端な場合であり、通常はそんなことで子どもはへこたれないと期待するが…………。
長尾さんは「なんで」と質問する4歳の子どもが、将来「人は何のために生きるのか」ということを質問する日を心待ちにし、それにまともに答えようと生きている。それは自分自身のための探求であると同時に子どもと共に生きる探求である。長尾さん自身は10歳ごろ、母親にこの質問をし、母親から「働くため」という答えを貰ったとのことである。かなり早熟だと思うが、現代の子どもたちの何人がこの「なんで」にまで到達するだろうか。非常に寂しい思いがする。彼は母親の答えを納得し、受けいれるが、それはあくまでも母親の答えであって自分の答ではない。その後、宮沢賢治の答えに出会い、「男はつらいよ」の寅さんの答えとも出会う。「生きてりゃよう、生きててよかったなーって思うことが、たまーにあるじゃねえか。そのために生きてんじゃねえのか。」(園長・牧師 文屋善明)

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