ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

サインにうそはない 2001.6.1

2001-06-01 08:27:51 | 嫩葉
サインにうそはない
「サインに嘘はない」というとその裏に「言葉には嘘がある」という現実が響いてくる。また、「言葉は誤解をうむ」と言えば、「サインは見落す」という言葉が共鳴する。誤解が生み出す人間関係の亀裂と同様に、サインの見落しは深刻な結果となる場合がある。特に、子どもが発するサインの見落しは悲劇的である。ところが、多くの場合、見落した大人は本人も自覚しないし、周囲もとがめない。悲劇は子どもだけが背負うことになる。
幼稚園の保護者に配布される「ともに育つ」7月号(キリスト教保育連盟発行)で、「子どものサイン」という文章が掲載されている。この文章は、そのままわたしの署名をして「私の文章」としたいぐらい共感するし、言いたいことを言い得ている。ぜひ、再読してもらいたい。
先日、わたしが裸足で(プール遊びの準備のため)、園庭を歩いていると、その姿をいち早く発見した年少組の男の子がわたしの脚を指差し、黙ったまま、豊な感情を残して離れて行った。たった、それだけである。しかし、わたしはその時の彼の楽しそうな笑顔を思い出して、1日中楽しくなった。
心と心の触れ合いには言葉は不用である。これはサインというよりも言葉を越えたコミュニケーションである。はたして、わたしたち大人のほうは子どもに対して、そのようなサインを送っているだろうか。子どもの発するサインを受け止めることができなくなった大人には子どもを託すことはできない。「言った、とか言わなかった」ということに振りまわされて、言い訳ばかりしている大人の社会にはうんざりする。子どもの世界の豊かなコミュニケーションにこそ、「神の国」はある。
子どものサインという場合、危険なことのほうが多い。子どもが暴力的になるとか、暴言を発するとか、すぐに泣き出すとか、異常に甘えんぼになるとか、腹痛を起こすとか、下痢をするとか、現象面が激しいと、大人はその対応に忙しく、その原因となっている問題点を見落してしまう。
多くの場合、子どもは大人に対して「自分が悪い」という思いが強い。親や保育者から叱られたとき、文句なく自分が悪いと思ってしまう。従って、幼稚園で叱られても、家でそれをあまり言おうとしない。あるいは、それを隠そうとするあまりに「かわいい嘘」をつくこともある。こういう「嘘」はあまり追及してはいけない。「そうではない、大人が悪い」、と主張できるのは小学生でも中高学年になってからで、幼児期では不満があってもそれを強く主張しない。そのストレスが生活態度や身体的に表現される。それが「子どものサイン」である。(園長・牧師 文屋善明)

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