ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

シャローム 2001.12.1

2001-12-01 08:34:57 | 嫩葉
シャローム
これはユダヤ・パレスチナ地方の日常的な挨拶である。彼らは市場でも家の中でも、山中でも、水上でも朝から晩まで「シャローム」と言い交わす。「平和でありますように」という意味である。「平和である」ということが彼らの願望であり、祈りであり、目標である。しかし、この地方は昔も今も戦争と紛争の連続である。それだけに平和への求めは強いのだろう。
紀元前七世紀、イスラエルにエレミヤという預言者が登場する。イスラエルは当時大国バビロンに包囲され崩壊の寸前であった。その時、エレミアはイスラエル軍の兵士たちに(勇気ある)投降を呼びかける。ところが、このことが問題になり、役人たちはエレミアを「反シャローム主義者」として非難する。(エレミア三十八・四)こういう緊迫した状況になる前に、エレミアは民衆に語っている。「身分の低い者から高い者に至るまで、皆、利をむさぼり、預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに、『シャローム、シャローム』という。」(エレミア六・十三、十四)ここにエレミアの考える「シャローム」と役人たちが求めている「シャローム」との対立が見られる。
シャロームとは単に戦争状態ではない、ということを意味しない。強権によって押さえこまれている「平穏」はシャロームではない。人々が「自分の利益」のことだけを求めて、隣人の不幸を無視する「無関心社会」はたとえ紛争がないにしてもシャロームではない。シャローム実現のために、隣人の生活を脅かす暴力は決してシャロームへの道ではない。異なる思想信条(価値観)の者たちがお互いに、他者がそれぞれの思想信条に従って生きる権利を尊重し、そのことによって自分自身もまた自分自身の思想信条によって生きる権利を主張することができる社会、それがシャロームであろう。
幼稚園においても、園児たちはそれぞれシャロームを求めている。子どもの世界もそのままでは決して平和な社会ではない。子どもなりに、さまざまな葛藤がある。強い子、弱い子、意地悪な子、優しい子、声の大きな子、控えめな子、いろいろである。しかし、ここで自分を主張し、他の子どもの主張と対立し、それを克服したときにシャロームが訪れる。幼稚園において、このシャロームを経験した者は、将来どこにおいてもシャローム・メーカーとなるであろう。
「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ五・九)(二〇〇〇・十二)

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