ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

癒しのスペース 2002.3.1

2002-03-01 08:38:48 | 嫩葉
癒しのスペース
ある暑い日の正午ごろ、イエス様は「ヤコブの井戸」と呼ばれている有名な井戸の端で弟子たちの帰りを待っておられた。弟子たちは昼食を調達するべく出かけたのである。イエス様はさんさんとふりそそぐ日差しの故か、喉が渇き、水を飲みたいと思われた。目の前には豊富な湧き水で有名な井戸がある。しかし、井戸は深く、汲み上げる道具がなければ飲めない。どうしようかと思案をしていると、都合よく一人の女性が水を汲みにやってきた。今頃、水を汲みに来る女性はいかがわしい女に違いない。イエスは気安く、水を飲ませて欲しいと頼む。ところが、ことは簡単に運ばない。女はユダヤ人から蔑視されてきているサマリア人であった。イエスは言うまでもなくユダヤ人である。彼女は、普段の鬱憤を晴らすかのように、ユダヤ人がサマリヤ人に気安く口をきくな、と突けんどんに答える。
これはヨハネ福音書に出てくる有名なエピソードである。ユダヤ人とサマリア人とが出会えば、どこでも、いつでも、発端が何であれ、最後は「エルサレムでの礼拝が本物か、ゲリジム山での礼拝が本物か」という議論になる。議論の展開は聖書を読んでいただくとして、わたし自身はこのエピソードを読んで「まことの礼拝とは、渇きが癒されること」と定義したい。
物語の発端は、喉の渇いた一人の男が、世間から蔑視され、差別されている一人の女に「水を飲ませて欲しい」と頼むことから始まる。喉が渇いているのは男の方だ。女は完全に優位な立場に立っている。男は何だかんだと言いながら執拗に水を飲ませてくれと頼む。女は男に嫌がらせしながら、そのプロセスを楽しむ。しかし、その会話の中で立場は逆転し、実は本当に渇いているのは自分自身であることに気付き始める。そして、やっと自分の道具を使って男に水を飲ませる。男の渇きは癒される。しかし、もっと重要なことは、男に水を飲ませることによって、女の方はもっと深く深刻な魂の渇きが癒される経験をする。今までは他人から愛されること、貢がれること、奪うことによって、満足を得ようとしてきた。だが、そこには本当の潤いはなかった。しかし今、他人の渇きを癒すこと、人のために尽くすこと、愛すること、与えることによって自分自身の魂の安らぎと癒しとを経験した。それこそが「まことの礼拝」である。
教会の礼拝は、信仰者だけのためのものではなく、魂の安らぎと癒しを必要としているすべての人々のために開かれた空間です。主イエスは言われた。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28) 
(園長・牧師 文屋善明)


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