ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

ジャガイモ 2002.4.1

2002-04-01 08:40:45 | 嫩葉
ジャガイモ
始業礼拝の翌日、年長組の園児たちは裏の畑でジャガイモを植え付けた。運転手さんたちが整えてくれた土の上に、種芋をそっと置き、柔らかな土を布団のようにそっとかぶせ、小さなかわいい手でトントントンとたたく。隣の畝には、1ヶ月前に植え付けた芋がもうかなり大きく育っている。
最近の都会の子どもたちは、自分たちが食べているものが、どこから来て、どのようにして、自分たちの口まで届いているのか、ほとんど見えなくなっている。魚は切り身しか見たことがなく、たとえ水族館で魚を見たとしても、それと食卓の上の料理とが結びつかない。野菜類も美しくパックされ、ひどい場合には(これはとても便利だが)、それぞれの料理用に切り刻まれて売られている。このような現状の中で、ささやかな経験として、自分たちが植え付け、水をやり、育てたジャガイモを掘り起こし、調理し、分配し、感謝の祈りを捧げ、一緒に食べる、ということも大切なことではないだろうか。
1学期の最後の給食では「カレーパーティー」を開き、年長組の苦労の結晶であるジャガイモを使ったカレーライスをみんなで食べる。年少組さんや年中組さんには、年長組さんたちが植えて育てたジャガイモであることを語り、年長組さんに感謝し、年長組さんはみんなで植え、育てたジャガイモをみんなで分けて食べる喜びを体験する。
食は「生=命」そのものである。食をおろそかにすると、いのちが弱まり、生活が貧弱になる。
聖書の宗教は食に徹底的にこだわる。神は人間を創造されたとき、「園のすべての木からとって食べなさい」と語られた。これが創造における神の恵みである。その時、ただ一つ、禁断の木を示された。これは神と人間との約束事(人格的関係)。ところが、人間は必要からではなく、欲望により約束を破ってしまう。それ以後、人間は「顔に汗を流して」(創世記3:19)食べ物を得ることとなった。ここまでが創世記が語る人間のドラマである。しかし、このドラマには続きがある。人間は苦労して得た食べ物を分かち合うことによって、苦労することなく得た食べ物では決して得られない喜びと救いとを味わい知った。この生き方をさらに深め、徹底させ、自分の人生そのものをすべて人々のために捧げつくし、命までも犠牲にしたのが主イエス・キリストの人生であった。教会では、この「キリスト」をみんなで分け合って食べる。「わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」。(ヨハネ6:57)それが「聖餐式」の秘儀である。
それはそうとして、今年のカレーライスに牛肉が使えるかどうか、園長は今から頭を痛めている。
(園長・牧師 文屋善明)

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