「徳川家康15 難波の夢の巻」
背用紙より。
文禄四年七月、名護屋から帰った秀吉は粗暴の振る舞い多く、「殺生関白」と怖れられていた秀次を高野山に自刃させた。上洛した家康が、秀頼への忠誠の誓紙をとられたのは、その翌月、三条河原で秀次の一族ことごとく斬殺された時である。慶長三年八月、秀吉は、秀頼の前途を案じつつ「浪花のことは夢の又夢」の辞世をのこして永眠した。
「徳川家康16 日蝕月蝕の巻」
背用紙より。
豊太閤の死後、石田三成は家康に対抗しようとあせった。秀吉に後事を託された家康が、朝鮮からの撤兵を無事に終えるころ、諸将の間に家康に異心ありの噂がひろがり、派閥抗争が激化する。やがて、武断派の加藤清正らにうとまられた文治派の三成はなぜか家康のもとに難を避けてきた・・・。

徳川家康 13、14
背用紙より。
文禄四年七月、名護屋から帰った秀吉は粗暴の振る舞い多く、「殺生関白」と怖れられていた秀次を高野山に自刃させた。上洛した家康が、秀頼への忠誠の誓紙をとられたのは、その翌月、三条河原で秀次の一族ことごとく斬殺された時である。慶長三年八月、秀吉は、秀頼の前途を案じつつ「浪花のことは夢の又夢」の辞世をのこして永眠した。
「徳川家康16 日蝕月蝕の巻」
背用紙より。
豊太閤の死後、石田三成は家康に対抗しようとあせった。秀吉に後事を託された家康が、朝鮮からの撤兵を無事に終えるころ、諸将の間に家康に異心ありの噂がひろがり、派閥抗争が激化する。やがて、武断派の加藤清正らにうとまられた文治派の三成はなぜか家康のもとに難を避けてきた・・・。

徳川家康 13、14