援助を求める真摯な熱意が等閑(なおざり)にされることは決してありません。
衷心からの祈りによる霊的つながりが出来ると同時に、援助を受け入れる扉を開いたことになります。
その時に発生する背後での霊的事情の実際はとても言語では説明できません。
元来地上の出来ごとを表現するように出来ている言語は、それとは本質的に異なる霊的な出来ごとを表現することは不可能です。
どう駆使してみたところで、高度な霊的実在を表現するにはお粗末なシンボル程度の機能しか果たせません。
いずれにせよ、その霊的実在を信じた時、あなたに霊的な備えが出来たことになります。
すなわち一種の悟りを開きます。
大勢の人が真の実在であり全ての根源であるところの霊性に全く気付かぬまま生きております。
こうして生きているのは霊的存在だからこそであること、それが肉体を道具として生きているのだということが理解できないのです。
人間には霊がある、あるいは魂があると信じている人でも、実在は肉体があって霊はその付属物であるかのように理解している人がいます。
本当は霊が主体であり肉体が従属物なのです。
つまり真のあなたは霊なのです。
生命そのものであり、神性を有し、永遠なる存在なのです。
肉体は霊がその機能を行使できるように出来あがっております。
その形体としての存在はほんの一時的なものです。
用事が済めば崩壊してしまいます。
が、その誕生の時に宿った霊、これが大事なのです。
その辺の理解ができた時こそあなたの内部の神性が目を覚ましたことになります。
肉体的束縛を突き破ったのです。
魂の芽が出はじめたのです。
ようやく暗闇の世界から光明の世界へと出て来たのです。
あとは、あなたの手入れ次第で美しさと豊かさを増していくことになります。
そうなった時こそ地上生活本来の目的である霊と肉との調和的生活が始まるのです。
霊性を一切行使することなく生活している人間は、あたかも目、耳、あるいは口の不自由な人のように、霊的に障害のある人と言えます。
霊性に気づいた人は真に目覚めた人です。
神性が目を覚ましたのです。
それは、その人が人生から皮相的なものではなく霊という実在と結びついた豊かさを摂取できる発達段階に到達したことの指標でもあります。
霊の宝は地上のいかなる宝よりも遥かに偉大であり、遥かに美しく、遥かに光沢があります。
物的なものが全て色褪せ、錆つき、朽ち果てたあとも、いつまでも存在し続けます。
魂が目を覚ますと、その奥に秘められたその驚異的な威力を認識するようになります。
それはこの宇宙でも最も強力なエネルギーの一つなのです。
その時から霊界の援助と指導とインスピレーションと知恵を授かる通路が開けます。
これは単に地上で血縁関係にあった霊の接近を可能にさせるだけでなく、血縁関係はまるで無くても、それ以上に重要な霊的関係によって結ばれた霊との関係を緊密にします。
その存在を認識しただけ一層深くあなたの生活に関わり合い、援助の手を差し延べます。
この霊的自覚が確立された時、あなたにはこの世的手段をもってしては与えることも奪うことも出来ないもの──盤石不動の自信と冷静さと堅忍不抜の心を所有することになります。
そうなった時のあなたは、この世に何一つ真にあなたを悩ませるものはないのだ──自分は宇宙の全生命を創造した力と一体なのだ、という絶対的確信を抱くようになります。
人間の大半が何の益にもならぬものを求め、必要以上の財産を得ようと躍起になり、永遠不滅の実在、人類最大の財産を犠牲にしております。
どうか、何処でもよろしい、種を蒔ける場所に一粒でも蒔いて下さい。
冷やかな拒絶に会っても、相手になさらぬことです。
議論をしてはいけません。
伝道者ぶった態度に出てもいけまません。
無理して植えても不毛の土地には決して根づきません。
根づくところには時が来れば必ず根づきます。
あなたを小馬鹿にして心ない言葉を浴びせた人たちも、やがてその必要性を痛感すれば向こうからあなたを訪ねて来ることでしょう。
私たちを互いに結びつける絆は神の絆です。
神は愛をもって全てを抱擁しています。
これまで啓示された神の摂理に忠実に従って生きておれば、その神との愛の絆を断ち切るような出来事は宇宙のいずこにも決して起きません。
宇宙の大霊である神は決して私たちを見捨てません。
従って私たちも神を見捨てるようなことがあってはなりません。
宇宙間の全ての生命現象は定められたコースを忠実に辿っております。
地球は地軸を中心に自転し、潮は定められた間隔で満ち引きし、恒星も惑星も定められた軌道の上を運行し、春夏秋冬も永遠の巡りを繰り返しています。
種子は芽を出し、花を咲かせ、枯死し、そして再び新しい芽を出すことを繰り返しています。
色とりどりの小鳥が楽しくさえずり、木々は風にたおやかに靡(なび)き、かくして全世命が法則に従って生命活動を営んでおります。
私たちはどうあがいたところで、その神の懐の外に出ることはできないのです。
私たちもその一部を構成しているからです。
どこに居ようと私たちは神の無限の愛に包まれ、神の御手に抱かれ、常に神の力の中に置かれていることを忘れぬようにしましょう。
衷心からの祈りによる霊的つながりが出来ると同時に、援助を受け入れる扉を開いたことになります。
その時に発生する背後での霊的事情の実際はとても言語では説明できません。
元来地上の出来ごとを表現するように出来ている言語は、それとは本質的に異なる霊的な出来ごとを表現することは不可能です。
どう駆使してみたところで、高度な霊的実在を表現するにはお粗末なシンボル程度の機能しか果たせません。
いずれにせよ、その霊的実在を信じた時、あなたに霊的な備えが出来たことになります。
すなわち一種の悟りを開きます。
大勢の人が真の実在であり全ての根源であるところの霊性に全く気付かぬまま生きております。
こうして生きているのは霊的存在だからこそであること、それが肉体を道具として生きているのだということが理解できないのです。
人間には霊がある、あるいは魂があると信じている人でも、実在は肉体があって霊はその付属物であるかのように理解している人がいます。
本当は霊が主体であり肉体が従属物なのです。
つまり真のあなたは霊なのです。
生命そのものであり、神性を有し、永遠なる存在なのです。
肉体は霊がその機能を行使できるように出来あがっております。
その形体としての存在はほんの一時的なものです。
用事が済めば崩壊してしまいます。
が、その誕生の時に宿った霊、これが大事なのです。
その辺の理解ができた時こそあなたの内部の神性が目を覚ましたことになります。
肉体的束縛を突き破ったのです。
魂の芽が出はじめたのです。
ようやく暗闇の世界から光明の世界へと出て来たのです。
あとは、あなたの手入れ次第で美しさと豊かさを増していくことになります。
そうなった時こそ地上生活本来の目的である霊と肉との調和的生活が始まるのです。
霊性を一切行使することなく生活している人間は、あたかも目、耳、あるいは口の不自由な人のように、霊的に障害のある人と言えます。
霊性に気づいた人は真に目覚めた人です。
神性が目を覚ましたのです。
それは、その人が人生から皮相的なものではなく霊という実在と結びついた豊かさを摂取できる発達段階に到達したことの指標でもあります。
霊の宝は地上のいかなる宝よりも遥かに偉大であり、遥かに美しく、遥かに光沢があります。
物的なものが全て色褪せ、錆つき、朽ち果てたあとも、いつまでも存在し続けます。
魂が目を覚ますと、その奥に秘められたその驚異的な威力を認識するようになります。
それはこの宇宙でも最も強力なエネルギーの一つなのです。
その時から霊界の援助と指導とインスピレーションと知恵を授かる通路が開けます。
これは単に地上で血縁関係にあった霊の接近を可能にさせるだけでなく、血縁関係はまるで無くても、それ以上に重要な霊的関係によって結ばれた霊との関係を緊密にします。
その存在を認識しただけ一層深くあなたの生活に関わり合い、援助の手を差し延べます。
この霊的自覚が確立された時、あなたにはこの世的手段をもってしては与えることも奪うことも出来ないもの──盤石不動の自信と冷静さと堅忍不抜の心を所有することになります。
そうなった時のあなたは、この世に何一つ真にあなたを悩ませるものはないのだ──自分は宇宙の全生命を創造した力と一体なのだ、という絶対的確信を抱くようになります。
人間の大半が何の益にもならぬものを求め、必要以上の財産を得ようと躍起になり、永遠不滅の実在、人類最大の財産を犠牲にしております。
どうか、何処でもよろしい、種を蒔ける場所に一粒でも蒔いて下さい。
冷やかな拒絶に会っても、相手になさらぬことです。
議論をしてはいけません。
伝道者ぶった態度に出てもいけまません。
無理して植えても不毛の土地には決して根づきません。
根づくところには時が来れば必ず根づきます。
あなたを小馬鹿にして心ない言葉を浴びせた人たちも、やがてその必要性を痛感すれば向こうからあなたを訪ねて来ることでしょう。
私たちを互いに結びつける絆は神の絆です。
神は愛をもって全てを抱擁しています。
これまで啓示された神の摂理に忠実に従って生きておれば、その神との愛の絆を断ち切るような出来事は宇宙のいずこにも決して起きません。
宇宙の大霊である神は決して私たちを見捨てません。
従って私たちも神を見捨てるようなことがあってはなりません。
宇宙間の全ての生命現象は定められたコースを忠実に辿っております。
地球は地軸を中心に自転し、潮は定められた間隔で満ち引きし、恒星も惑星も定められた軌道の上を運行し、春夏秋冬も永遠の巡りを繰り返しています。
種子は芽を出し、花を咲かせ、枯死し、そして再び新しい芽を出すことを繰り返しています。
色とりどりの小鳥が楽しくさえずり、木々は風にたおやかに靡(なび)き、かくして全世命が法則に従って生命活動を営んでおります。
私たちはどうあがいたところで、その神の懐の外に出ることはできないのです。
私たちもその一部を構成しているからです。
どこに居ようと私たちは神の無限の愛に包まれ、神の御手に抱かれ、常に神の力の中に置かれていることを忘れぬようにしましょう。