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北条早雲の血脈

2018年06月17日 | 歴史
後北条氏は北条早雲が流浪の浪人の身から一代で作り上げた、なんて書くと「学者さんに怒られ」ます。学説ではそうではないからです。

でも「後北条氏は流浪の身から一代で作り上げた」「齋藤氏は道三が油売りの身から一代で作り上げた」。「研究」なんて無視してそう考えた方が、ドラマとしては楽しいように思えます。特に道三の方は、学者さんたちの「二代で作り上げた説」も、なんだか根拠が薄い気がしてなりません。

さて「武士による政治」。鎌倉幕府から足利幕府に至るまで、中央集権制はかなり薄いですから「武士による政治」という言葉も問題が多いわけですが、まあそういう政治があったとします。

武士のイメージ。これは江戸時代に入ってだいぶたってからのものが、今のイメージとなっています。原型は「暴力で物事を解決する人々」です。鎌倉武士がそうですね。ただ彼らにも「仁義」みたいのはあるようです。今の暴力団にもある彼らなりのルールですね。義経なんてのは「仁義なき戦い」をして、舟の漕ぎ手を矢で射たりするものだから、鎌倉武士に一方では恐れられ、一方では嫌われます。

そういう人々ですから、あまり民政という考え方はしません。ただ富国強兵策はとります。それが時に「民政のように」みえることもあります。また執権泰時は少しばかり民政を推奨しましたが、地頭たちに浸透はしませんでした。

民を多少なりとも大事にしよう、という民政の考え方が広まったのは、島原の乱を経て、寛永の大飢饉を経験してのち、と言われます。

しかし、後北条氏、小田原北条氏は、早くから「民政」の考え方を持っていた、らしいのです。

私は前々からどうして北条氏が秀吉に服属しないで最後まで抵抗したのか、が気になっています。多くは「傲慢さが原因」という風に理由づけされます。

それもあるでしょう。あるでしょうが、「民政」という面からみると、ちょっと違ってきます。

秀吉は百姓上がりですが、同時代の人間がそうであったように、「民政」の考えはあまりありません。惣無事令、あれは領主間の紛争禁止令であって、民政とはあまり関係しません。戦闘がなくなって、結果として民は「ほっとした」かもしれませんが。

秀吉の朝鮮侵略は朝鮮の民を苦しめましたが、同時に日本の民も苦しめました。秀吉を民政主義者とは言えないでしょう。

ところが北条氏は民政主義的なところがあります。そのあたりが一番重要なのではないか。秀吉に最後まで服属しなかったのは、「民政をめぐって両者に大きな考え方の違いがあったから」ではないか。

何かの本にそんなことが書いてありました。これは私としては「なるほど」と思う説です。

日本の情勢も知らず、小田原評定をやって滅んだ愚かな田舎武士、そう描かれることの多い後北条氏ですが、本当にそんな説明でいいのでしょうか。どうにも疑問です。

後北条氏の滅亡も不思議ですが、鎌倉北条氏の滅亡も凄まじいですね。六波羅探題の北条氏も鎌倉の北条氏も、見事なまでに徹底して滅んでいきます。後に「中先代の乱」が起こったことを考えれば、鎌倉の北条高時は逃げられたと思うのですが。

これも武士の美学、滅びの美学で説明されてしまいますが、本当にそうなのでしょうか。

日本の歴史には色々不思議なことが沢山あって、記録がないから分からないことだらけ。

だから面白いわけでしょうが。