散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

朱蒙(チュモン)の感想文

2018年06月21日 | ドラマ
チュモン。

一頃、随分話題になった作品です。数年前に録画をして、それをBDRに移してそれっきり見ていませんでした。字幕スーパーだったからです。で、昔のBDRを取り出して見てみました。

チュモンは神話上の人物で、神話上高句麗の始祖です。彼の子供が南に下って百済を作ったという神話もあり、百済にとっても始祖的存在です。

60話ぐらいまでずっと「3人兄弟の後継者争い」が描かれます。正直退屈な感じがしました。早送り、早送りなので、この辺りは真面目に見てません。

最後の20話ぐらいが、高句麗建国で、ここはやや面白い。

なぜ「やや」かというと、この作品は政治性が強い作品で、「朝鮮はひとつ」「敵は漢帝国」が主題になっています。だから基本、チュモンは朝鮮(古朝鮮)の民とは戦わないのです。敵は漢のみ、で、後は融和的態度によって統一を進めます。ドラマとしては、どうも面白味に欠ける気がします。

見ていて心配になったのは、主役の俳優さん。まだ若いのですが、朝鮮民族全体の父みたいな役を演じて、精神は大丈夫かなと思いました。で、ちょっと調べたら、反日活動俳優になっているようです。「なるほど」と思いました。そういう方向にいってしまう、周りがそう仕上げてしまう、その陥穽にはまってしまったなと思います。

もっとも作品には反日はありません。だって時代は一世紀、日本は勿論、倭国、邪馬台国だってなかった時代です。「倭寇」なんて言葉も出てこなかったように思います。「倭人はいた」かも知れませんが「倭国」も「ヤマト王権」もまだない。存在しない「倭国」「日本」に対して「反」の姿勢はとれません。

とにかく反中国というか、反漢帝国という面が非常に強い作品になっています。調べてないけど、きっと中国では放映できないでしょう。

高句麗の本拠地は今は中国です。北朝鮮の上あたりですね。陸地がつながっていると、色々面倒だなと思います。「固有の領土」とか言い出したらきりがない。どこまで遡るのだという話です。

話はずれますが、固有の領土という表現はよくないですね。日本語としてもオカシイ。たとえば尖閣諸島なら明治20年代、1895年ぐらいから、です。どうして明治以来の領土と言わず、固有の領土というのか。いろいろ政治的思惑が隠れてはおりましょうが、不正確というか、あいまい過ぎる日本語で、どうにも変な感じがします。

チュモンに戻ると、これは2006年の作品のようですが、もうこういう「国威発揚的時代劇」は韓国では流行っていないようです。史実すら考慮されず、ファンタジー時代劇の時代になっているようです。「よう」と書いたのは、しっかり調べてはいないからです。それはなんというか、「いいこと」のように感じます。

わたしは「日本人」なのか。「民族」について。

2018年06月21日 | 歴史
「民族の定義」に定説はありません。「よく言われるような仮説」ならあります。

日本民族の「仮説」による定義はこんな感じです。

1、日本に比較的長く住んでいて、日本文化や日本の政治的社会文化を受容している。
2、母語が日本語である。
3、自分を日本人だと思っている(帰属意識)
4、遺伝子レベルで日本人的である。
5.「見た目」がアジア人である。

「1」なんぞは簡単に反論できます。日本に長く住んでいる外国人タレント。中には15歳ぐらいで日本に来て、50年ぐらい日本にいる人もいます。国籍も帰化して日本人。でもいつまでたっても「外国人扱い」です。日本文化に対して学者並みの知識があっても、なかなか日本民族だと認定されません。
「4」もダメですね。遺伝子レベルで「日本人的」なら世界に沢山いるでしょう。例えばフェギアスケートの長洲未来さん。完全にアメリカ人ですが、遺伝子レベルでは「日本人的」かも知れません。それに遺伝子レベルということになると、北方系、中国系、朝鮮系、南方系と日本人ぐらい多種多少な遺伝子をもった集団は世界でもそんなに多くはないのです。

一般には「2」と「3」と、あと「5」が重視されるように思います。「5」は多民族国家「的な」国では全く意味のない定義ですが、日本の場合「単民族的な雰囲気がある」ので、それなりの意味を持つようです。むろん日本人は様々な「人種?」で構成されていますから、厳密にいえば「5」は意味を持ちません。

わたしは「たぶん」ですが、1から5まで全部当てはまります。だからきっと日本民族なんでしょうが、確定的には言えません。民族の定義に定説がないからです。

父は海軍の少尉でした。父系の祖父は職業軍人で陸軍大佐でした。母系はもっときっちりしていて「士族」です。これは間接証拠になるようなルーツですが、聞き伝えですから「あて」にはなりません。

やはり日常生活の上では、「母語」と「帰属意識」と「見た目」で「なんとなく」そう思っている人が多いのでしょうね。宗教が加わる場合もあるのですが、日本人を識別する宗教はありません。「キリスト教を信じているなら日本人ではない」という言葉は成立しないのです。わたし自身は無宗教です。

ここでユダヤ人を持ち出すともっと混乱します。ユダヤ人とは「ユダヤ教の信者」だ、という定義が古くから存在します。だからユダヤ教の信者なら「日本人でも英国人でもベトナム人でもユダヤ人です」となりますが、この表現は論理的におかしい表現です。「ユダヤ人」の定義なぞ、それこそ確定的な説はないので、こういう混乱が起きるのです。

さて、わたしは「日本人」なのか。「日本民族に属している」のか。

その答えは、たぶんそう(日本人、日本民族)なのだろうし、私はそう思っているが、そもそも定義がないのだから、確定的なことは厳密には「言えない」つまり「定義がないのだからわからない」、ということになります。