散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

平将門は現在「朝敵」であるのか。

2018年06月28日 | ドラマ
平将門について「史実を語る」ことは、ほとんど不可能に近い作業のようです。生まれた年すらはっきりとはしません。死んだのは940年の2月です。

桓武天皇の5代後ぐらいの子孫とされますので、平氏の中でも桓武平氏の一族です。平清盛のご先祖さんではありません。平清盛のご先祖さんは、平将門を討ち取った平貞盛です。

平将門の乱は上記のように940年ごろに起きます。関東を独立国家にして「新皇」を名乗ったとされますが、異論もあるようです。ただ反乱を起こしたことそのものは、「事実」のようです。

「新皇」を本当に名乗ったのかについては諸説がある、ということです。

この頃の戦いは3000人程度のぶつかり合いのようです。将門には勢いがありました。でも結局のところ追い詰められ、藤原秀郷と平貞盛によって討ち取られます。貞盛と将門は「いとこ」の関係です。藤原秀郷は俵藤太という別名もあります。関東の多くの氏族が、この藤原秀郷を祖と仰いでいます。

この10世紀段階においては、むろん平将門は「朝敵」でした。

鎌倉幕府が成立する頃までには、将門を関東の英雄とする考えが広まっていたようです。一方で「たたり神」としても敬われていたようです。

そうした中で北条時宗の時代の1309年、神田明神に「神」として合祀されます。

ただどうもこの時点でも「朝敵」の解除は特に行われていないようです。といって「朝敵」として憎まれていたわけでもなく、既に武士の守り神でしたから、朝敵という認識は特になかったと思われます。

正式に「朝敵でなくなる」のは徳川三代目家光の時代です。幕府の働きかけによって朝廷が朝敵の指名を解除しました。

ところが明治維新後、再び朝敵論議がでてきます。で「逆賊」とされて、神田明神の神から「はずされて」しまいます。「朝敵」というより「逆賊」とされたわけです。

日中太平洋戦争後の皇室は、もう「逆賊か逆賊ではないか」を決めることなどしなくなります。戦後内閣も「逆賊か否か」を決めるなんてことはしません。

ということで、なんとなくあいまいなまま、それでも神田明神の神からは「はずされたまま」でした。が、民衆意識としてはやはり将門は「祭神」でした。

1976年に平将門を主人公にした大河ドラマ「風と雲と虹と」が放映されます。私もむろん見ていますが、「庶民の英雄」として「おおやけの横暴」に抵抗する英雄として将門が描かれました。

で、また将門復権の動きが強まります。そして1984年になってやっと「再び祭神として神田明神に合祀」されます。「それまでも神であったが」、「正式に合祀された」わけです。

つまり現在においては「たぶん将門は朝敵ではない」が正解になります。朝敵を解除する組織も、指定する組織もないからです。

将門というと首塚の「たたり都市伝説」が有名で、「帝都物語」などでは日本最強の「怨霊」として描かれました。

が、将門保存会の会長である平野徳子氏によれば(NHKの番組にて発言)、そういう「怨霊伝説」は都市伝説に過ぎず、そうした事実はないそうです。平野氏によれば将門は「怨霊」ではなく、「守り神」で、だから自分たちは「大切に」している。自分たちが「大切にしている神」が、「事実誤認」(首塚を撤去しようとすると人が死んだなんて事実はない)によって「怨霊」とされるのは、どうにも納得できない、そんな感じのことをおっしゃっていました。



北条時宗、重時、政村のこと

2018年06月28日 | ドラマ
北条時宗。2001年には大河ドラマの主人公にもなりました。演じたのは和泉元彌さんです。近年の作としては武蔵とともに「DVDになっていない」作品です。

鎌倉幕府は1180年から1333年まで続きます。約150年です。

北条時宗は1251年に生まれ、1284年に亡くなっています。34年の短い生涯です。

執権としては「8代目」です。ただし「得宗」(義時本流)としては7代目です。得宗は全部で9人ですが、執権は全部で16人です。時宗以降、執権は8人も出ますが、得宗は2人です。得宗への権力集中は、こんな数からも分かります。

大河ドラマ「北条時宗」を見て、「おもしろいな」と思った点は、北条重時や北条政村が登場する点です。この二人は北条泰時の「兄弟」です。つまり父親は北条義時です。

このうち北条政村は1205年に生まれ、1273年に亡くなります。北条時宗の死が1284年ですから死没年は10年しか違いません。北条政村は第7代執権ですが、得宗ではありません。

時宗は泰時の「ひ孫」ですが、彼が執権になった時点でもまだ「泰時の兄弟」が存命しているわけです。鎌倉幕府は「短かったんだな」と改めて思いました。

時宗はフビライハンを退けた名執権ということになっていますが、そのために無理に無理を重ねました。その結果自分が死んでしまいますし、なにより財政が悪化します。さらに北条氏(得宗)の権力が強くなりすぎ、各地で反北条の意識が芽生えます。

その結果、鎌倉幕府は時宗の孫の代で滅亡します。時宗の子が貞時、その貞時の子が高時。この高時が30歳ぐらいの時に鎌倉幕府は滅亡します。

北条重時は平幹次朗さんが演じました。北条義時の3男です。鎌倉は北条だらけなので、北条ではなく、極楽寺重時とも呼ばれます。幕府最後の執権は赤橋(北条)守時ですが、この赤橋家も極楽寺流の家です。

彼は時宗の父である北条時頼を補佐しました。執権にはなりませんでしたが、幕府の「重し」として北条執権制の安定に寄与した人物です。1261年に死没しています。つまり時宗が10歳の時までは存命していました。彼の子である長時は第6代執権ですが、得宗ではありません。

北条政村には「時」の字がありません。大河ドラマでは伊東四郎さんが演じました。北条義時が死没した時は、20歳前ぐらいで、母の伊賀氏が政村を執権にしようと画策したことになっています。「なっています」と書いているのは疑問を唱える学者もいるからです。まあ、通説ではその「伊賀氏の変」を北条政子が鎮圧し、泰時が無事執権についたことになっています。伊賀氏は伊豆に流されますが、政村には塁は及びませんでした。「伊賀氏の変などなかった」から、または「泰時が度量の広い人物だったから」とされます。

北条氏得宗(義時本流)への権力集中は時頼のころから始まり、時宗の代に顕著化します。そもそも得宗という言葉自体、時宗の代に作られたという説もあります。

鎌倉幕府というのは、いわば「土地争いの調停役」で、中央集権性は薄い幕府です。しかし得宗の権力が強まったことにより、中央集権性が強くなります。「土地争いの調停役」でなく、得宗が権力の中心になったことが、鎌倉幕府の滅亡を早めた。私はそう考えます。

北条義時の「ひ孫」が北条時頼で、北条時頼の「ひ孫」が北条高時です。その高時の代には幕府は滅亡します。150年ありますが、短い感じを受けます。