鏡海亭 Kagami-Tei ウェブ小説黎明期から続く、生きた化石? | ||||
孤独と絆、感傷と熱き血の幻想小説 A L P H E L I O N(アルフェリオン) |
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生成AIのHolara、ChatGPTと画像を合作しています。
第59話「北方の王者」(その1)更新! 2024/08/29
拓きたい未来を夢見ているのなら、ここで想いの力を見せてみよ、 ルキアン、いまだ咲かぬ銀のいばら! |
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小説目次 | 最新(第59)話| あらすじ | 登場人物 | 15分で分かるアルフェリオン | ||||
ゼフィロス・モード、風の力を宿した飛燕の騎士!
物語は、いよいよ新たな局面に向かって動き出しています。
さらなる執筆のための景気づけに、本日は、なんと、アルフェリオンのゼフィロス・モードの画像を公開です!!
引き続き、御期待下さいませ。
それでは。
『アルフェリオン』まとめ読み!―第52話・後編
| 目次 | これまでのあらすじ | 登場人物 | 鏡海亭について |
|物語の前史 | プロローグ |
5.御子の使命と「聖体降喚(ロード)」
◆ ◆
「ひとつ尋ねる。君は何のために戦う?」
カルバはルキアンを正面から見つめ、厳かに問い掛けた。
何のために戦うのか――それは、今までに何度となくルキアンが自問自答してきたことだ。逃げて、迷って、立ち止まって、考えるたびに彼の《答え》は揺れ動いてきた。
「僕は……。ただ戦いに巻き込まれ、必要とされるままに戦い、自分や仲間が生き残るために戦わざるを得ませんでした。本当は争いなんかに関わりたくなかったのに」
おずおずと口を開いてルキアンが語り出す。ここまでは、いかにも、カルバがよく知っているあのルキアンの答えだった。だが次の一言に、これまでのルキアンには無かった決意めいたものを、彼の師は感じ取る。
「でも今は違います。僕は《反乱軍》と《帝国軍》から、この国を守りたいんです」
ルキアンは一息に言い切った。もっともそれは、祖国を愛する若い戦士なら普通に口にしそうな台詞だ。カルバは特に反応を見せなかった。
「あの、別に、愛国心だとか、正義感だとか、そういう気持ちにだけ動かされて戦っているのではないのだと、最近、自分でも分かりました。もともと、国のために命をかけるとか、正義を守って戦うとか、そんな気持ちで戦場に行けるほど僕は強くないし、志が高いわけでも、素直でもないみたいです。そういう僕のこと、先生もよくご存じでしょう」
後ろで黙って聞いているブレンネルは、つい頷いてしまい、独りで苦笑いする。
――そうだろうよ、そうだろうよ……って、いや、それはルキアンに失礼か。でも、むしろ素直だ、キミのそういうところ。
自分以外の三人を極力刺激しないよう、ブレンネルはそっと首を動かし、周囲を見渡した。相変わらず気楽に構えているようにみえても、実際のところ、緊張のあまり彼の喉や舌は渇き切っている。
――それにしても、ヤバいどころの話じゃないな。ルキアンの師匠のイカレた魔法使い。それに、そこのスウェールとかいう、裏で何人も殺ってそうな凄みのある坊さん。駄目だ、あいつらの目は完全にぶっ飛んでる。どうする……俺? ここから生きて帰してくれないかもな。
ブレンネルの心配をよそに、ルキアンは言葉にいっそう力を込めた。
「他の何かや誰かのためという以前に、自分自身の問題として、反乱軍や帝国軍の思い通りにさせたくないから、こんな僕でも戦うようになったのだと思います。話し合いを無視して自分たちの主張を力ずくで押し通そうとする反乱軍。一方的に戦争によって世界を意のままにしようとする帝国軍、それを率いる《神帝》ゼノフォス。言葉で理解し合おうとせず、譲り合うことなどなく、相手の力や立場が自分より強いか弱いかという物差しに応じてしか行動しない人たち。そういう人たちのやり方がまかり通るような国に、オーリウムを変えさせたくないんです。イリュシオーネを、そんな生き辛い世界にしたくもありません。僕が夢見ている世界は……」
自らの言葉に酔っているのか、普段よりも甲高い声になってルキアンは語り続けた。立ち上る熱気に眼鏡を少し曇らせ、彼は付け加える。
「そう、僕にも夢ができました。前に向かって進んでゆくための行き先ができました。別にそれが夢物語でもいい、実現なんてしそうもない、でもとにかく、僕が戦うのは《優しい人が優しいままで笑っていられる世界》のためなんです。だから……」
すると、ルキアンの熱弁の途中でカルバが諭すように遮った。
「君の理想を否定する気はない。反乱軍や帝国軍をこのままにしておいてはいけないことも確かだ。だが、ルキアン……。いま必要であるのは、そういう話ではないのだよ。目の前の戦いの中で、君は《御子》として為すべきことを忘れている。いや、忘れているのではなく、おそらくまだ知らないのであろう」
ルキアンは師の言葉の意味が分からず、返答に困って口ごもった。そんなルキアンを見てカルバは溜息をつくと、声の調子を若干やわらげて告げる。その声の響きは、つい先日までルキアンが身近に接してきた師匠カルバ・ディ・ラシィエンを思い起こさせた。
「無理もあるまい。そうであろうと思って私は君に伝えに来たのだ。今のままでは、連合軍が勝とうが帝国軍が勝とうが関係なく、どのみち世界は滅びを迎えるだろう。御子よ、君の敵を知り、果たすべき使命を知るのだ」
「果たすべき、使命……」
ぼんやりと言葉を繰り返したルキアンに、カルバは重々しく頷いた。
「先ほども言った通り、《あれ》の《御使い》は――すなわち《時の司》と呼ばれる存在は、この戦争によって現在の世界が自滅へと向かうよう、背後で糸を引いている。《失敗作》となった我々人類を《削除》し、もはや《培養器》としてはふさわしくなくなったこの世界を《初期化》し、《世界の摂理(システム)》を原初から《再起動(リセット)》するために」
カルバは銀の杖を打ち鳴らし、白の長衣の裾を揺らめかせてルキアンの方にまた一歩近づいた。鎖状の飾りの付いた杖の先をルキアンに向け、静かな気迫をにじませた形相で語り続けるカルバ。
「君は、ゼノフォスのことを愚かな暴君であると思っているかもしれない。だが彼は、むしろエスカリア始まって以来の名君として民の期待を一身に背負っていたのだ。そんな皇帝ゼノフォスが、突如、何者かに取り憑かれたかのように《神帝》と名乗り、イリュシオーネ全土を支配しようと他国を侵略し始めた。奇妙だとは思わないか……。しかも帝国軍は、《浮遊城塞エレオヴィンス》をはじめ、現世界の技術を遙かに超えた兵器を多数、なぜ急激に投入できたのか。そんなことがどうして可能なのだ?」
返答をしないルキアンに、カルバは畳み掛けるように言う。
「いや、帝国軍ばかりではない。ガノリスが敗れ、帝国軍が間近に迫り、オーリウムでは反乱が起こった。皆、それに気を取られてばかりいるが、内乱の背後で恐るべき計画が着々と進められていることにほとんどの者は気づいていない」
「《大地の巨人 パルサス・オメガ》が覚醒しようとしていることに」
その名を耳にしたとき、無意識のうちに、ルキアンの胸に何とも言えない感覚が込み上げてきた。一方では嘔吐感に近い気持ちの悪さ、他方で血が熱くなり、沸騰して体中をめぐっているような、武者震いにも似た感覚。
「我が物顔で王国を牛耳るメリギオス大師は、《大地の巨人》をすでに手に入れ、これを今後の帝国との交渉を上手く進めるための切り札とでも考えているようだ。しかし、ひとたび目覚めた《大地の巨人》は、いずれは人間に背き、自らの意志で、オーリウムはおろか見境なしに世界の文明すべてを破壊しようとするであろう。旧世界の狂気の天才科学者ダイディオス・ルウム教授が造り上げた、最強のアルマ・マキーナ。いや、機械でありながら己の意志を持ち、自己進化機能によって成長し続ける、破壊と殺戮の権化。旧世界の当時、《天上界》の軍隊ですら手も足も出なかったパルサス・オメガの力を想像するに、我々の世界・イリュシオーネなど、ほんの数日間もあれば滅ぼされる可能性が高い」
遠いどこかを見つめる素振りをした後、カルバは忌まわしげに言った。
「おそらく、それが《時の司》の狙いなのだ。そもそも現世界の人間だけでは、パルサス・オメガを入手し覚醒させる方法など分かるわけがない。その背後で、間違いなく《時の司》が暗躍しているはずだ。奴らは《大地の巨人》を覚醒させるための情報をメリギオスに与え、まんまと騙して《巨人》を復活させるつもりなのだろう」
カルバはついにルキアンの目の前まで歩んできた。突然、甲高い金属音が足元で鳴り響く。手にした杖を離し、カルバは左右の手で、ルキアンの細い両肩をいきなり掴んだのだった。
「だが、この世界のからくりをここまで知っていて、自分たちの世界が滅びに近づいていると知りながら、私にはどうすることもできない。悔しいが、我々《人の子》の力など《御使い》の前では、無力だ……」
カルバは薄笑いを口元に浮かべた。自嘲、だったのだろうか。いずれにせよ、その鬼気迫る表情にルキアンは思わず後ずさっていた。
「この気持ちが分かってもらえるか、ルキアン! だから御子の力が必要なのだ。頼む、未来を、この世界を救ってほしい。真の闇の御子よ」
涙声にも似た調子でそう語ったカルバの目には、しかし、涙はなかった。いや、感情の光さえ再び消えていた。
しばらく、沈黙が聖堂内を支配する。緊迫した師弟のやりとりを、ネリウスは先ほどから醒めた横目で見ていた。
――肝心のことは語らずじまいとは、カルバ、そなたらしいな。いや、それとも「弟子」にせめてもの心遣いをしたつもりか。
再び、カルバの声とルキアンの声が発せられ、両者は何事かを言い交わしている。だが2人の言葉は、ネリウスの中で次第に小さくなってゆく。
――世界のからくり、そんなものなど知りたくなかった。人は《あれ》のことなど意識しなくても生きていける。多くの場合、何も知らなくても――いや、知らない方が――幸せにすら生きて死んでいける。だが、《あれ》や《時の司》のことを、さらに《鍵の石板》に記された御子の真実を、理解してしまったとしたら……。
ネリウスの瞳に、師と必死に渡り合うルキアンの姿が映る。その姿が少し滲んでいたのは気のせいだろうか。
――何故、過去のいかなる御子も、自分たちの世界を守ることができなかったのか。
――その《本当の理由》に、闇の御子にかかわるあの秘密に、我らは気づいてしまった。失われた第7編の《石板》を得て、我らは禁断の《聖体降喚(ロード)》に手を出し、幾度にも渡る失敗を重ね、繰り返すたびに犠牲者を増やし、そして辿り着いた。
無辜の者たちの命と絶望を糧に生まれた、
たったひとつの血塗られた希望に。
あのときワールトーアで……
光の名を持つ真の闇が《受肉(インストール)》されたのだ。
6.思い出、儚く。再び閉じられる記憶の扉!
「だから、ルキアン、真の闇の御子よ。私と共に来てほしい」
これまで見知っている姿とは異質な、鬼気迫る様相で呼びかける師を前にして、ルキアンは後ずさる。カルバはすかさず詰め寄り、乾いた口調でさらに告げる。
「この世界を《あれ》の思い通りにさせないために、君の力が必要だ」
彼の口調は、単に告げるというよりも、ルキアンの「師」として彼に命ずるような、物静かだが威厳のあるものだった。
だが言葉よりも早く、ルキアンの本能的な感覚が彼の体を衝き動かした。先日までの師を押し返し、困惑でしどろもどろになりながらも答える。
「待ってください! 僕は、あの、何と言ったらいいのか、先生のことを嫌いになりたくありません。それは確かです。なのに、先生のおっしゃったこと、僕が御子であると最初から知っていて……。何が何だか、もう訳が分かりません。今の僕には、先生のことが信じられないです。だからここで、先生と一緒に行ってはいけない気がします」
「落ち着くのだ、ルキアン。私の話をよく聞いてくれないか」
そう言いながらも、カルバはルキアンを半ば無理やりにでも連れて行こうとする。その手を掴んで止めたのは、今まで黙って見ていたネリウス・スヴァンである。
「ネリウス、何をする!?」
そのときだった。カルバが怒りの形相でネリウスの名を呼んだとき、その言葉のもつ特別な響きに、懐かしい名前に――ルキアンの中で何かが蘇った。
「ネリウス……。ネ・リ・ウ・ス?」
突然、少年の唇が、彼自身の意識とはかかわりが無いかのように震え、わななき、言葉をかたちづくる。頬に、涙が溢れた。ルキアンは力なく屈み込み、敷き詰められた冷たい青磁調のタイルに掌を付いて、ただただ、落涙に身を任せている。
「マスター、ネリウス……」
◆
幼年時代の幸せなひとときの記憶。
傷つき、濁ったレンズの向こう側を垣間見るように、ぼんやりと、緑の中に溶け込んだ三つの人影が、ルキアンの心の目に映った。
荒削りの木材でできた粗末な野外用の食卓につき、黒い衣をまとった体格の良い僧が、おそらくは礼拝時よりも省略されているのであろう、簡易な作法で祈りを捧げている。
「いただきます、神様、師父様!」
そう言った幼子の頭を、大きな手が撫でた。
◆
「不用意な! このままでは記憶の封印が解けるぞ」
ネリウスが声を荒らげる。だが、そう言い終わるが早いか、彼は、非難とも驚愕とも、そしてある種の安堵感ともとれるような、なんとも言えない気色を浮かべてルキアンを見た。
――私の名前が引き金となったか。たとえ封印されても、今まで手放すことなく……。
その間にも、ルキアンの中で目覚め始めた何かは、もはやとどまるところを知らず、記憶の渦が堰を切って流れ出す。彼の顔つきや物言いが、まるで幼い子供のように変わった。
「師父様(マスター)。僕、寝坊しちゃったのかな。ごめんなさい。起きなくちゃ。悪い夢、ずっと……見ていたのかな」
ルキアンは、ふと何かに気が付いたような仕草の後、焦点の定まらない半開きの目で、周囲をきょろきょろと見回す。
「おねえ、ちゃん?」
あのときの少女がルキアンの心の奥で振り返った。
「まだ、思い出さないの?」
《盾なるソルミナ》の生み出した幻影の底、果て無き精神の牢獄、その深淵において浮かび上がった、あの娘の姿だ。懐かしい、しかし思い出せない、あるいは思い出してはいけない、その大切な人。
あのとき。おびただしい数の子供たちの遺骸が、呪われた人形の群れと化してルキアンに襲い掛かったとき。完全な幻の世界の中で、《人の子》には決して抗えないという旧世界の超兵器ソルミナが、狙い澄まして生成した悪夢の像、それが、あの少女の似姿に他ならない。ただ、ルキアンの心を殺すためだけに。
しかし、人の手で改竄された彼の記憶が、それを無意味なものにさせた。人間としての生を、《私》としての尊い同一性を弄ぶ悪魔のような所業が、皮肉にも彼の心を護ったのである。ソルミナが最後に語った言葉を、ルキアンは思い起こす。
封印された記憶のことを知るまい。
もし《封印》さえ無ければ、
汝は最後の部屋で終わりを迎えていたはず。
汝は、いつか知るだろう。
召喚……一組の……適合……犠牲……。
だが、なおも流れ続ける涙の量に呼応するかのごとく、ルキアンの瞳を、次第に狂気の色が塗りつぶしていく。
「どうして? 僕たち、もうとっくに、いなくなってるよね」
一瞬にして、ルキアンの心象は暗闇と血しぶきにまみれる。
「エ……おねぇ、ちゃん?」
ルキアンは、かすれた小さな声で、絞り出すかのように、姉の名を口にした。そのあと、もはや正気の光を失った目で、己の過去の苦痛を声にして再現するとでもいうのだろうか、何かが切れたかのようにわめき出した。
「怖いよ、怖い!! 何かが入ってくる……。僕が、僕じゃなくなっていく!」
そして唐突に沈黙した後、彼は歪んだ口元に、絶望を帯びた笑みを浮かべ、荒い吐息と共につぶやくのだった。
「僕はもう死んでいる。僕も、お姉ちゃんも、死んでるんだよ」
《警告。執行体の起動条件は満たされていません。表域擬態層に大規模なノイズ発生。警告します。このままでは、プロジェクト・ノクティルカの遂行に致命的なエラーが生じます》
「待って。僕? 《僕》……って、誰……」
「お姉ちゃんは、僕の、お姉ちゃんなの? 僕って、《僕》なの?」
《接続可能な範囲に、アーカイブが存在しません。執行体のみでの起動は非推奨です。実行可能領域を強制的に表域擬態層に固定します》。
「あ、あぁ、ああ……あ゛、あ゛、アァアあアァああああ゛!!」
ルキアンが白目を剥いて叫んだ。魂の基層にまで刻み込まれた痛みを、歪みを、いまここで彼がすべて吐き出そうとしているようにも思われた。操る糸が途切れた人形さながらに、ルキアンは、力なく、細い手を伸ばした。おそらく、最後のよりどころを求めて。
「師父様(マスター)、助けて……」
悶えるルキアンを凝視し、黙り込んだままのネリウス。
「たとえ僕が誰であろうと。あの頃、マスターは、僕のマスターでしたね」
ルキアンの頬につたう涙。
何者にも止めることは叶わない。
ただ、流れよ、その涙。
自身の震える身体すら重そうに、ルキアンは俯せに倒れた。
「それだけは、確かなこと……」
気を失っていくルキアンの脳裏に、かつての日々が、断片的に浮かび上がっては消える。
◆
「すごい、大きいの釣れたね、師父様!!」
苔むした岩壁と木々に囲まれた谷川で、竿を握り、丸々とした立派な渓魚を釣り上げたネリウスに、目を輝かせて銀髪の幼子が駆け寄った。その後ろから、同じく銀色の髪の少女が、彼が足を滑らせないかと心配そうに見ている。
男の子が無邪気に笑う。
「師父様! えへへ。一回だけ、その・・・今だけ、《パパ》って呼んでも、いい?」
隣で微笑んでいるのは、彼よりも背の高い、おそらく姉のような女の子。
流行り病か何かにかかったのか、顔を赤く染めてベッドに横たわっている銀髪の幼い少年。苦しそうな吐息。そのか細い手をしっかりと握るネリウス。例の女の子が、水を入れた桶と手拭いを運んでくる。
だが、幼年時代の眩いばかりの記憶に、次第に濃い霧がかかる。大切な思い出を暗闇が呑み込んでいく。そして最後に残されたひとこまは、《あの日》の夜のことだった。
青みを帯びた墨を平板に広げただけのような、月の無い夜のもと、茫漠とした空と枯れ野。あちらこちらに、黒く点々と、寒村のみすぼらしい家々の影が見え、その真ん中に、ただ規模は大きいにせよ古ぼけて荒れた館が、置き去りにされている。
門の前に立つ二人は、この館の主人とその妻であろう。彼らと向き合っているのは、頭巾から長衣を経て足首まで、すべて白ずくめの、闇夜に漂う亡霊のごとき、あるいはどこか邪教の神官を想起させる、異様な装いの三人である。
真ん中の一人が、僧衣には似つかぬ逞しい腕を伸ばして言った。
「《ルキアン》、ここが君の家で、こちらが君のお父さんとお母さんだ」
その手の先をぼんやり見上げながら、幼い銀髪の少年が、何か別のものに憑かれ、言葉を口にさせられているかのように、遠く虚ろな目でつぶやいた。
「はい。僕は《ルキアン・ディ・シーマー》、この家の子です。さようなら、師父様(マスター)」
およそ意志の力を感じられない、抑揚を伴わない声で。
◆
うつ伏せに倒れ、唇の間から僅かに血を流しているルキアン。崩れ落ちる前、かろうじて床に手はついていたようだ。眼鏡も側に転がっていたものの、割れたり歪んだりはしていないとみえる。
おもむろに、ルキアンのもとに歩み寄ろうとするカルバ。だが彼の意図を察したのか、ネリウスが、毅然とした様子で首を振った。哀しみの色を帯びた、それでいて獣をも思わせる鋭い視線が、カルバに向けられる。
「御子が大いなる選択を迫られたとき、代わりに我らが道を選ぶことは避けるべきはず。これ以上、そなたの意思を御子に強いてはならない。《ザングノ》の我らが、《僧院》の掟を自ら破るか?」
カルバ・ディ・ラシィエンは、しばらく無言でネリウスを睨むと、いつもより低い調子の声で同意した。
「分かっている。あくまで我らは道を整える者。選び、行く者ではない。しかしな……時は迫っているのだ。滅びの日は近い」
冷めた笑みを、ほんのわずかに口元に浮かべると、カルバは手にした銀の錫杖を鳴らした。それまで硬く凍り付いていた聖堂内の空気が揺らぐ。銀と銀の奏でる涼しげな音が、緊迫した雰囲気を溶かしていくかのようだ。
「私は引き上げるとしよう。ネリウス、後のことはいつものように任せる。《失われたワールトーア》は、もはや伝説の中にしか存在しない。おそらく森の精が紡ぎ出したのであろう、遠き日の幻にすぎないのだと」
カルバの人差し指が中空で何度か弧を描くと、彼の足元が青白く光り、たちまち輝きがあふれ出して魔法円を描いた。僧院の中でも、《ザングノ》の位階を持つ最上位の者たちが使う、強力な《転送陣》だ。靄のような、羽衣を思わせる光に包まれ、カルバの姿が消えた。
ネリウスは黙礼すると、カルバと同じように銀の錫杖を揺らした。伏したままのルキアンを一瞥すると、彼は深く息を吸い、膨大な魔力が体中を巡るのを感じつつ、両手で杖を真っすぐ持ち上げた。
「見ひらけ、針を戻せ……《絶界のエテアーニア》」
彼が口にしたのは、旧世界のある種の至宝を起動させるときに一様に似たような語調で唱えられる、例の力の言葉だ。同時に心の中では、このように自分に言い聞かせながら。
――これで良い。あの日々を再び失うのは辛いであろう。だが、私のことなど……《あの子たち》のことも……そして、お前の《姉》のことも、元のように記憶の海に、深い深い海に沈む。
――ただ、再び我が名を、そしてまた師と呼んでくれたことは……。
ネリウスの銀の杖が、床を鋭く突いた。その清冽な響きとともに、得体の知れない力が、それも途方もない魔力のうねりが、聖堂を飲み込み、さらにはワールトーアの失われた村を覆って、寄せる波のごとく、一面の緑濃い木々の間をも騒がせ、流れ去った。この聖堂の地下に何かがある、あるいは何か巨大なものがいる。
「さらばだ、ルキアン。かつて幼かった弟子(わが子)よ」
ほんのわずか、瞬く間のみ、遠き想いに浸る言葉。
それだけを残すと、《転送陣》を描いたネリウスの姿も虚空に消えた。
◇
「あ、あれ? ここは?」
どのくらい気を失っていたのか、それとも眠っていたのか、密生した木々の作り出す緑の天井の隙間から、ぼんやりと開いたルキアンの目に、落日近づく緩い陽光が差し込んでくる。
「森の……中、かな。それにしても深い森だな」
ルキアンは、胸や背中に残った、覚えのない痛みを感じながら、ゆっくりと上半身を起こした。ふと指先に、地面に埋め込まれた冷たく滑らかな石製の人工物の存在を感じる。
「ここに建物の跡が、いや、あちらにも。こんな森の奥に。昔、猟師の人でも住んでいたのかな」
◇
「《絶界のエテアーニア》、旧世界の結界兵器の中でも、《盾なるソルミナ》と並んで最も畏怖されたそれ。どちらも同じ者による創造物であったがな。人の心を玩具にする、あの男が……」
大洋からよどみなく打ち寄せる波の音を、向こうに聞きながら、老賢者あるいは老いた術士のような姿をまとったパラディーヴァ、フォリオムが言った。レマール海に突き出した岬、その上に立つ、《大地の御子》アマリアの居館と庭園だ。
「わが主よ。今は昔の、おとぎ話として、現世界にまで遺っておるじゃろう? 一方は、一度入ったら二度と戻れない城の話。他方は、夢のような一夜を過ごしたら、朝には消えていた都の話。しかも、あったはずの都が消えていたどころか、そこに街があったということまで、もはや誰も覚えていなかったと。分かるかの? つまり、一度入った者は、そこから出れば、中で起こったことをすべて忘れる……そのような結界が、ソルミナと同じく《人の子》には決して乗り越えることのできない心の壁、エテアーニアなのじゃよ」
わざと、子供に昔話でも読み聞かせるかのような口ぶりで、フォリオムは彼の主(マスター)に告げる。その隣では、赤いケープを羽織った神秘的な女性が、静かに目を閉じ、老友の声に耳を傾けている。
◇
「僕、何してたんだろう? 見えない……眼鏡、眼鏡!?」
ルキアンは、今更のように慌てて眼鏡を探した。
「良かった。壊れてないな。そういえば、なんだか、ずっとここにいたような気がする」
このような深い森に迷い込むと、彼らのいうところの《遊び》を求める妖精たちにたぶらかされて、良くてせいぜい不思議な体験をするか、悪くすると命まで持っていかれかねないという話は、現世界の今でも噂されることだ。人の手の届きにくい、自然の力の大きい場所、たとえば森の奥や海の沖合などにおいては、かつて《現実界(ファイノーミア)》から分かたれた《夢影界(パラミシオン)》との境界が、比較的曖昧になっているからだと。
大切な眼鏡を傍らに探り当てたルキアンは、レンズの埃を丁寧に拭い、再び掛けようとする。そのとき。
「どうしたのかな? 本当に、僕、ここで何を」
何の前触れもなく、激しい感情が体の奥底から湧き上がってくる。ルキアンは呆然と天を仰いだ。
「分からない。けど、どうして……。どうして、こんなに」
ルキアンは震える声で言った、いや、むしろ、咽び泣いた。
「こんなに、涙が……止まらないのかな!?」
自分でも理解できないまま、ルキアンは空っぽの胸を、両手で抱きしめた。膝立ちのまま、彼は独りで涙を流し続けた。
◇
「わが主よ。闇の御子がせっかく手にした記憶であったのに。扉は再び閉じたぞ」
フォリオムのその言葉に応えたのか、だが独り言のような、預言者じみた様子でアマリアがささやく。彼女が見開いた目は、その心はいまだ夢うつつの世界に留まるようでいて、しかし見る者の魂までも引き込みそうな、常闇の宝玉を思わせた。
「フォリオム、一度空いた扉は、それ以前よりも軽くなるものだ。いずれ、しかるべき時が来れば……。しかし、彼自身が失った大切なものを、のぞき見していた者の方だけが、つまり私が、今も覚えているというのはいただけない」
「仕方があるまいよ。闇の御子の《紋章回路(クライス)》が開いた今、そなたらは《通廊》でつながっているのじゃから。《対なる存在》を介してな。それとも、よもや覗き見が趣味ではあるまいの?」
悪戯っぽく笑うフォリオムは、このようなときだけは好々爺の表情を浮かべる。パラディーヴァの冷徹な本性に反して。
「失礼だな。私はそんなに趣味の悪い女ではない。御老体のいうところの、可愛げはない女であることは否定しないが」
そう言いつつも何故か機嫌よさげに、アマリアは彼方に目を向け、想いの翼を潮風に乗せた。この大海原、遠くレマール海を挟んだ向こうの地に、ルキアンたちのいるオーリウム王国へと。
◇
この空虚な胸の内は何だろうか。
まだ涙の乾かない目を閉じ、黙って、子供のように鼻をすすったルキアン。
そのとき、背後で下草を踏む音がして、誰かの声が聞こえた。
「お、おい、そこの君。大丈夫か?」
膝立ちのまま、振り返ったルキアンの前に、濃い深緑色のくたびれたコートが見えた。その下の方には、ラクダ色の大きな革ブーツ。
「珍しいな。まさか同業の人?」
尖った顎髭が特徴的な、短い金髪の男が、ひきつった笑みを浮かべて手を振っている。おそらく30代か40代くらいだろうか。
「わ、若いな。すまん、頼むから腰の物は抜かないでくれ。俺は山賊でも魔物でもない。真っ当な、いや、ちょっと胡散臭いネタも書くが、一応の物書きだ」
気の抜けたような、それでもどこか安心したような様子で、男はルキアンに名乗る。ただ、こんなに弱々しげで無害にみえる少年ではあっても、腰に剣と銃を帯びているため、万一のことも考えて彼は警戒しているらしいが。
「俺はパウリ。パウリ・ブレンネル。ノルスハファーンのカフェの主人、いや、そっちは妻に任せっぱなしで、まぁよくある三文文士ってやつさ」
ルキアンは、こうして他人と話せることが、どういうわけか無性に嬉しく感じられて、この初対面の相手に対して珍しく口数が多くなった。
聞くところによると、ブレンネルという男は、この森の伝説「失われたワールトーア村」のことを調べるために、王国北部の中心都市ノルスハファーンからわざわざやってきたらしい。疑わしい雑文の種にして、新聞屋や書籍商にでも話を持っていく企みだ。あるいは冒険者のギルドあたりも、話を売りつける先としては適当だろうか。だが、そんなとき、ブレンネルはなぜか森で気を失ったらしく、ルキアンと同様、今しがたまでそこに倒れていたそうである。
「ワールトーア? 本当に、そんな村があったのですか。ここって、とても人が簡単に来られるような場所ではないですけど……」
初めて出会ったにしては、珍しく調子の合いそうなブレンネルと、ルキアンは楽しげにさえ語らっている。いま、彼がどうしてこの状況にあるのか、ここに来るまでに、あるいは今までに何があったのかを思い返すことを、敢えて避けようとするかのように。か弱い若者の妙な屈託のなさが、かえって痛ましくもみえる。
「あぁ。その村に迷い込んだ者が神隠しに遭ったとか、幽霊を見て命からがら逃げ出してきたとか、そういう噂が絶えない。《ワールトーアの帰らずの森》と言ってだな」
自慢げに語るブレンネル。ルキアンは、森の切れ目から見える空を見やると、心配そうに告げる。
「あ、あの……もう少し経ったら、日が暮れるのでは? あといくらか、時間はありそうですが」
「そうだな、今晩は野宿と洒落込むか。これでも俺はカフェの主人って言ったろ。料理の腕はそれなりに悪くないんだぜ? 一緒に食うかい」
ルキアンは――笑ってみた。頷いて、涙を拭いて。
少年の率直な反応に気を良くしたのか、ブレンネルの与太話は続く。
「あ、そうそう。昔、狼狩りの男というのがいて、だ、それで……」
病に侵された体を押して、その魔奏術でもって恐狼(ダイアウルフ)の群れを凍った湖に吞み込ませた男。だが彼の怒りの呪歌は、やがて裏切り者の村人たちに向かい、ワールトーアからは一切の住人がいなくなったという。ある日消え失せた村の件がもし本当なのだとしたら、その理由を無理やりにでも想像するための材料として、今のルキアンやブレンネルは、狼狩りの哀しいおとぎ話くらいしか持ち合わせていない。
「それは、《音魂使い》ですね」
「ん? ルキアン君は妙なことに詳しいな!」
「いや、僕は……」
付近一帯、見渡す限りの範囲に彼ら以外の人間はおそらくいないであろう、先の見通せない深い森の中で、二人の笑い声が気ままに飛び交う。いや、彼らはそんな不用心な様子だが、本来はもっと野獣や魔物、あるいはさらに出遭いたくない存在に、気を配った方がよさそうだ。周囲には、もう夜の足音が近づいてきている。
それは、ルキアンが絶望の先に、ほんのひとときだけ寄り添うことのできた、短いが尊い、憩いの時間だった。
だが、そのような刹那的な安逸は、この森にルキアンが置いてきたものと、引き換えに彼が得た結果である。ルキアンは大切なものと、知るべき真実と向き合い、だが再びそれを失ったのだから。ワールトーアの記憶、村を襲った惨劇、あまりにも早く散っていった銀の髪の姉弟のこと、そして幼き日のルキアンに穏やかな時間をくれた、たった一人の姉と、彼を見守った《師(マスター)》の思い出を。
【第53話に続く】
2013年11月~2023年5月に本ブログにて初公開
『アルフェリオン』まとめ読み!―第52話・中編
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3.「僕は……誰なんですか?」
「最初から私は知っていた。君が《闇の御子》であることを。今日のような日がいずれ来ることも分かっていた……いや、君が己の宿命に気づき、御子として私の前に現れるこの日を、むしろ待ち望んでいたというべきであろう」
カルバは弁解する素振りすら見せず、表情にせよ声にせよ完全に平静なままで、言葉を付け加えた。
――ここは、せめて少しくらい躊躇してから答える場面じゃないのかね……。
事情を知らないブレンネルですら、カルバの答えに唖然とした様子だった。場の雰囲気だけからみても――ルキアンがあれほど動揺して問いかけたにもかかわらず、彼の師であるカルバの方が平然と即答したのは、さすがに奇妙に思えてならなかったのだ。
ましてやルキアンにとってみれば、何の迷いや後ろめたさもない確信に満ちた師の態度が、あまりに異様で、とにかく異様でならなかった。
「《最初》から? それって……いつからなんですか。まさか先生は、僕が《御子》であることを、僕自身よりも先に知っていて、弟子にしたということですか」
「無論だ。君が私のところに来ることも予め決まっていた」
「ちょっと、待って、ください……。それじゃぁ、僕は……」
ルキアンが漠然と抱き始めていた不安、それが師の今の言葉によって、はっきりとした形を取りはじめた。言葉に詰まった後、ルキアンは、言いたくないことを敢えて口にした。
「僕は、《両親(あの人たち)》にとっては《いらない子》で、兄たちとは違って、僕一人だけがいつも虐げられ、罵られ、挙げ句の果てに《口減らし》のために家から都合よく追い出されました。そう思っていました」
話が進むにつれ、唇が震え、少年はわななく。明かされ始めた答えへと、いま、一歩一歩近づきつつあることを恐れて。
「ただ、どうしても気にかかることがあったんです。何の愛情もないはずなのに、僕なんか居ない方がいいと思っていたくせに、なぜあの人たちが僕を引き取り、嫌々ながら10年間も養ったのか」
ルキアンは改めて心の中で繰り返す。あの夜に密かに聞いてしまった養親の言葉。忘れてしまいたいのに、むしろ思い起こすたびに鮮明となり、心に刻み込まれる言葉。
「ねえ、あなた……あんな子なんてもらわなければ良かったわ」
「声が高いぞ。あの子が聞いていたらどうするんだ」
「大丈夫ですわ。もう寝てますよ」
「まあ、やむを得まい。《金になる》んだ。わが家を守るためには……」
「とにかく《16歳まで面倒を見れば》大金が手に入る。あとは、とっとと
追っ払って」
「えぇ、あんなどうしようもない子とも、あの《薄気味悪い連中》とも、
早く縁を切ってしまいたいもの」
「その話は出すな。《彼ら》のことは決して口にしないようにと言われた
じゃないか」
ルキアンの想像力は真実を射貫いた。悲しそうな目をして、彼はカルバに向き直る。
「先生、すべては最初から筋書き通りだったということですね。僕が御子で、いずれ先生のところに弟子入りすることを見越して、それまでシーマ-家が預かる、と。あの人たちは金に目がくらんでそれを受け入れた」
頷きもせず、否定しようともせず、カルバは黙ってルキアンを見つめている。
「なぜ、あんな家に、あんな人たちのもとに、僕が預けられたのかは分かりません。知りたくもありません。ただ、僕が知りたいのは……。シーマ-家に引き取られる前、僕はどこで何をしていたのでしょうか。多分、先生はご存じなのでしょう」
日ごろは内気で優柔不断な少年だが、ひとたび心に火が付いたならば、直感のもとに熱に浮かされたその饒舌はとどまるところを知らない。
「《僕は、ここに居た》のではないですか? 本当は。僕は、この村のことを覚えていました。ここには一度も来たことがなかったはずなのに」
忌まわしき記憶の淀みを、魂の井戸の底をのぞき込むような暗い目をして、ルキアンは抑揚のない声でつぶやいた。
「肝心なことを……聞きたいんです。先生、ワールトーア村で13年前に何があったんですか。ねぇ、スウェールさんも、知っているのでしょう? 僕が一緒に手をつないでいたあの女の子は、誰なんですか」
矢継ぎ早に問いかけた後、ルキアンは声を落とし、生気の凍り付いた陰惨な表情でつぶやく。
「あの……教えてください。僕は……誰なんですか?」
4.ワールトーアの惨劇、その真実
◆ ◆
あたたかい。
わたし、もうつかれちゃった。
なんだか、きもちがよくなって、ねむくなってきた。
ほんとうのおうちって、こんなのかな。
かえりたいな。
すべての願いを叶えたような、満足げな顔つきで目を閉じ、夢と現実(うつつ)との間で横たわる少女がいた。彼女の腕は、幼い男の子をしっかり抱きしめていた。決して離そうとしない力強さで、それでいて壊れ物をそっと護るように。
男の子は、手足をちぢこめ、半ばうずくまった姿勢で少女にいだかれている。彼も、すやすやと、実に平和そうな表情で吐息をもらす。
おそらく姉と弟だろうか。どちらも、銀色に輝く美しい髪の持ち主だ。
優しさと安穏に満ちたふたりの姿。
だが、その小さな幸せが本物でもなく永遠でもないことは、周囲の恐るべき状況をみれば明らかだった。二人はドーム状の光の中に閉じ込められている。揺らめく光の壁の表面を這い上がり、黒く輝くツタらしきものがみるみるうちに成長して、鋭い棘で覆われた結界を新たに作り上げてゆく。
彼らが横たわる床には、異界や天上の存在を象徴するのであろうサインや、魔道の力を呼び覚ます複雑怪奇な図形、そして、この世界では使われていない文字がびっしりと書き込まれている。どうやらここは、城の広間や神殿の礼拝堂のような大きな空間らしい。床面全体を使って、幾重にも円陣が描かれており、幼き姉弟はその中心部に眠っている。
◆ ◆
「カルバ先生、13年前のワールトーア村のことは、僕が何者なのかということと、たぶん関係があるのでしょう。何となく分かります」
おぼつかない口ぶりで、ルキアンは執拗に問いかける。
沈黙の支配する中、ひとつの溜息が妙に大きく聞こえた。カルバは重い口を開く。
「それは、いずれ分かる……。だがその前に君に告げておかねばならないことがある。だから私は、こうして君に伝えに来た」
今まで身じろぎもせず、彫像のように立っていたカルバがようやく動いた。彼はルキアンの方に一歩踏み出し、相変わらず顔色ひとつ変えずに語りかけた。
「これからの最後の使命を果たすために、カルバ・ディ・ラシィエンであることを捨て、家族を捨て、弟子を捨て、《月闇の僧院》の者として人の生を捨てた私が、敢えて再び君に会いに来た」
カルバの目に、今までには無かった感情の炎が灯る。激しい情念があふれた。
「君の力が必要なのだ、ルキアン。この世界が《再起動(リセット)》されることなど許してはならない。これまで無数の世界がその運命を辿ってきたようには、断じてさせてはいけない。《あれ》によって……そう、すべてを支配する《絶対的機能》から生じる不可避の作用として、あるいは《因果律の自己展開》の一環として、《人の子》の歴史が密かに《修正》され続けることを、そして修正すら困難となった場合には、すべてが原初に還されることを……。そんな《歴史》はもうたくさんだ。だが、いま私たちの世界は、イリュシオーネの大乱を隠れ蓑にして、《あれ》の《御使い》たちによって確実に滅びへと導かれている」
カルバは異様な眼光を浮かべてルキアンに歩み寄る。
「人は人として、たとえどれだけ取るに足りない存在であろうとも、自分たちのひ弱な足で世界に立ち、限りある命におびえながらも日々を歩み、たとえどれだけ愚かでも自分たちの手で歴史を紡ぐ。そうすべきだ」
《そのためなら、私自身は悪魔にでもなる》
師の突然の不可解な発言に、その熱気に押され、今度はルキアンの方が言葉を返せなくなる。しかも、断片的ではあれ、これまでに《御子》として知ったことをつなぎ合わせれば、カルバの言わんとするところについて、ルキアンには漠然とでも心当たりがある。そのためにルキアンはなおさら当惑した。
ひとり、明らかに場違いなブレンネルにしてみれば、カルバは気でも狂ったのかと思われたかもしれない。何か言い出そうにも、呆れて、あるいは得体の知れない恐怖感に支配されて、ブレンネルは強ばったまま固唾を呑んで見守るしかなかった。
そしてネリウスは、目を閉じ、何事かを思い起こそうとしているようにみえる。
◆ ◆
それは北風を忘れた夜。静かな冬の夕べ。
冷気が肌を刺す痛みは覚えても、寒さ自体は実際よりもかなり落ち着いて感じられる。
時おり、目の前を漂うまばらな雪の向こう、村の家々の灯りが見える。鬱蒼とした森に囲まれ、一面の闇の中にぽつんと浮かぶ小さな村。
その入口には簡単な門が立っている。たいまつの明かりに見え隠れするのは、門柱から門扉まで、決して華美ではないが精一杯はなやかにと、しつらえられた飾りの数々だ。場所柄のためか、木彫りの飾り物が特に目立つ。鹿、うさぎ、狼などに似た森の獣たち、太陽と月、そして翼を持った童子の人形など、村人たちが仕事の合間に彫り上げたのであろう素朴な木の玩具が、野花や木々の葉、リボンなどで着飾っている。
イリュシオーネの冬を代表する祭日――大空の神アズアルの大祭日を間もなく迎えるため、オーリムの片隅にあるこの村も、ささやかな祝いの気持ちをこうして表していた。そして、さらに松明の光に浮かび上がるのは、村の名前を記した道標。
《ワールトーア》
この名を、ほのかな光で読み取ることができた。
と、そのとき、不意に聞こえてきた何かが、たいまつの炎を微かに揺るがしたかのように思われた。凍てついた静寂の空気を伝わって、どこからともなく聞こえてくる声。あるいは歌?
抑揚なく、それでいてよどみなく続く、声の響き。
生気の無い、乾いた、人の喉を振るわせて発せられる音の並び。
たとえ喜びの歌であれ、悲しみの歌であれ、恨みの歌ですらあっても、それが仮に音楽ならば、何らかの感情の動きがもう少し込められていてもよさそうなものだが。
◇
《ロードを……開始する》
村外れの薄暗がりでそうつぶやく者がいた。
影がうごめく。村を囲む簡素な木の柵の向こう、闇に包まれた森に、木々の間から家々の様子をうかがう不気味な白装束の集団。
住人は誰ひとりとして気づくことなく、《狂信者》の群れに村は取り囲まれていた。
◇
闇夜の森の中、突然に赤い光が大地から漏れ出した。
人為的な光など無い、夜の樹林の奥、木々とは異なる村の家々の影が浮かび上がった。
ほぼ時を同じくして、激しい地響きと地割れを伴い、住居や塔、街路や広場を断ち切って、村を丸ごと呑み込む巨大な魔法陣が描き出されてゆく。
村は赤い結界に包まれる。結界の表面に、さらに色濃い血のような紅の光があふれ、液体さながらにどくどくと流れ落ちる。おぞましいことに、その様子は、結界の中から血を搾り取っているかのように見えてならなかった。
助けを求める若い男の声が響いた。その声に次々と被さるように、老いも若きも、女も男も、あらゆる人々の悲鳴と絶叫が耳を埋め尽くしてゆく。
逃げ惑う村人たち。至る所で、人影が何かに締め付けられ、無残にちぎれて飛び散った。暗くてよく見えないが、現実のものとは思えない状況をそのまま描写するならば――地面から無数の蛇に似た、いや、イバラのツタを思わせる何かが現れ、人々を絡め取っている。荊(いばら)に絡みつかれた者は、血しぶきを上げながら、植物が枯れ果てるように崩れ落ち、みな、生気を失った老人のごとき姿で地に伏し、二度と起き上がらない。
天空高きところから真一文字に雷光が走り、閃光が村をさらに包んだ。あたかも、村を閉ざす紅の結界に惹きつけられ、その匂いを辿ってきたかのように。血塗られた犠牲に呼び込まれるかのごとく。そう、この惨状は、ただの殺戮ではなく、何ものかへの《生け贄》のためではないかと感じられるのだった。
人の時間ではない夜の世界に跋扈するあやかしの精を集めたような、異様なほどに濃い黒雲が森の上空を覆う。これを貫き、さらに空と大地を突き通して、巨大な光の柱が村を呑み込んだ。天と地をつなぐ閃光は、明らかに村をめがけて降り注いでいた。
◇
銀髪の姉弟の姿はもはや見えない。彼らは荊の壁に覆い尽くされ、外界に対して牙をむく棘の結界の中で、いばらの《繭》の中で夢みて眠っている。
その様子を見守りつつ、ただ独り立つネリウス・スヴァンの姿があった。黒い僧衣に身を包み、その上に白い長衣をまとい、深めに被ったフードの奥で彼の目が鋭い光を放つ。
彼の右目には、ルキアンと同じ《闇の御子》のしるしが浮かんでいる。広間の床から今なお次々と伸びてくるくろがね色の《荊》のツタは、村人たちを襲ったのと同様にネリウスに絡みつくかと思われたものの、不思議なことに彼を避け、むしろネリウスの周囲を守っているかのようにすら見えた。
黄金色の光でネリウスの瞳に刻まれた紋章。ただし、ルキアンの《完全》なものとは異なって、紋章を形成する光の線があちこちで途絶えている。だが代わりに彼自身の血で補われ、つまり血文字でところどころ上書きされた形状で紋章が現れているのだ。
その右目を押さえ、痛みに耐える仕草をしながら、ネリウスは最後の言葉を唱え、先ほどから続く長大な詠唱の果てに呪文を完成させた。
彼は祈りを捧げる。
頭を垂れず、ただ手だけを合わせ、無表情に、同じ姿勢で居続けるネリウス。
【第52話・後編に続く】
2013年9~10月に本ブログにて初公開
『アルフェリオン』まとめ読み!―第52話・前編
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封印された記憶のことを知るまい。
もし《封印》さえ無ければ、
汝は最後の部屋で終わりを迎えていたはず。
汝は、いつか知るだろう。
召喚……一組の……適合……犠牲……。
(盾なるソルミナの化身)
1.シーマー家の密約と幼きルキアン
◆ ◆
その日、彼らはやってきた。
月のない夜空のもと、寒々と静まりかえった庭園。なまじの広さが災いし、人の手が足りないのか、もはや手入れも諦められ、荒れるに任せてうち捨てられたような様相であった。
かつて、賑やかで幸せな日々がここにあったのかもしれない。
過去の栄光をしのばせる立派な噴水は、いまでは枯れ果てて、一見すると何であるのか分からないほど荒廃している。昔日には白磁色の肌を艶めかせていたのであろう、いわゆる白鳥石でできた噴水は、今では薄茶色に汚れ、泉の面影もない底面には、砂や枯れ草が溜まるばかりである。
庭のあちこちで好き勝手に生い茂った植物たちの影は、夜の闇にうごめく魔物の群れを想起させた。ふと、庭園の端にある鉄柵に目をやると、木質化した巨大な薔薇が、乾ききった硬いツタを茂らせ、錆びだらけの柵に絡みついている。もはや生きているのかどうかも定かではなく、このまま石になって周囲と一体化してしまいそうにも見える。
水はけの悪い、腐臭じみた匂いの漂う黒い土と、およそ使い道のない、湿って沼地のようになった原野に囲まれた、とある寒村がここであった。
この庭園の背後に建つ屋敷は、規模からして、おそらく一帯の領主か誰かのものであろう。だが立派であるのは大きさだけで、貴族の屋敷とは名ばかりのみすぼらしく寂しい有様だ。いわんや領民たちの暮らしぶりは、想像を絶するほどの貧しさであろう。
生気のない庭に、突然、澄んだ金属音が鳴り渡った。
静寂の中、神秘的ながらも冷たく暖かみのない響きは、この世ならぬ死者の使いを思わせ、美しくも背筋を凍り付かせるものであった。規則的に打ち鳴らされる音は、次第にこちらに近づき、音の主たちの姿も暗がりの向こうから徐々に浮かび上がってくる。頭から足首まで白い長衣に包んだ得体の知れない者が三人。いずれも頭巾を深く被っており、顔つきはよく分からない。
三人のうち、前を行く二人は従者であると思われる。やがて彼らは立ち止まり、後ろに立つ男が、銀色に輝く錫杖を静かに鳴らした。
彼らと向き合っているのは、この館の主人であろう中年の貴族の男と、その妻であろう女だった。男の方が神経質そうな声で尋ねる。
「人払いは済んだ。約束通り、前金でいただけるのでしょうな」
没落した暮らしが続き、貴族としての矜持を忘れて久しいのか、彼は今にも手を伸ばさんばかりの様子であった。後ろに立つ妻は、かつての贅沢を忘れられないような、強欲そうに肥え太った姿でうなずいている。
銀の錫杖の男が従者たちに指図すると、両手のひらで抱えても余るような、ずっしりと金貨の詰まった革袋が、館の主人に手渡された。その重さに、思わず腕に力を精一杯込めつつ、彼はやたらに喉を渇かせて言った。
「わ、分かった。約束は必ず守る。その子をこちらへ」
よく見ると、その場にもう一人いた。長衣の三人の背後、小さな子供が隠れるようにのぞいている。美しい銀色の髪をした、まだ5,6歳程度の幼い男の子だ。表情が無く、目は虚ろで、しかし口元にだけは、脈絡のない引きつった笑みを微かに浮かべているようにも見えた。
銀の錫杖の男が口を開いた。不気味な出で立ちからは予想し難い、高貴で心地よく響く、低い声で。
「ディ・シーマー殿、この子が16歳になったとき、《ある者》から迎えが参ります。それまでは約束した通りに。もし、言葉を違えたときには……」
物静かで、慇懃だが、有無を言わせない調子であった。仮に夫妻が金だけを手にして、あの子を捨てたりしようものなら、いったいどんな報復を受けるのか、想像するのも恐ろしいほど異様な相手である。
「《ルキアン》、ここが君の家で、こちらが君のお父さんとお母さんだ」
杖の男は子供の頭を撫でた。精霊か異界の妖魔かとも思われた彼が、初めて見せた人間的な振る舞いだった。
銀髪の男の子は彼の方を見上げると、ほとんど聞き取れないような、か細く抑揚のない声で言う。
「はい。僕は《ルキアン・ディ・シーマー》、この家の子です。さようなら、師父様(マスター)」
焦点の定まらない、瞳孔の開いたような目でルキアンはつぶやいた。だが彼自身の意思が、その言葉からまったく感じられないのは何故だろうか。何かに憑依でもされているかのごとく、ルキアンはぼんやりと足を進め、「両親」たちの後についてふらふらと屋敷に向かっていった。
その姿を見届けた三人。再び銀の杖が打ち鳴らされると、彼らは夜に紛れ、影の中に溶け込んでゆくかのように見えなくなった。
闇の中で一人が言った。
「お手数をおかけいたしました。あなたが、ここにわざわざお越しになるまでも……。ネリウス師父(マスター・ネリウス)」
「見届けたかったのだよ。彼は我らと同じ……。いや、彼は我らとは違い、《真の闇の御子》となる者。そうであろう、ゼロワン」
その言葉と共に、銀の杖が涼やかに鳴り響き、彼らの姿は再び何処へともなくかき消えるのだった。
◆ ◆
――大きくなったな、ルキアン。それに、こんなにも……。
スウェールことネリウス・スヴァンは、いま目の前にいるルキアン・ディ・シーマーを見つめながら、心の奥でそっとつぶやいた。ブレンネルと何やら話しながら歩いてくるルキアンの姿が、瞳に映る。ネリウスは神殿の扉の鍵を開け、二人を呼んだ。
「もう、あたりは薄暗くなりましたね。村の近くに、ノルスハファーンの街やミルファーンとの国境の方面へと続く街道があります。そこまでお送りしましょうか。いや、ほんの少し、軽い夕食でもご一緒しますか。あいにく粗末な物しかありませんが。どうぞ」
扉に手を掛けたネリウス。そのとき、彼の目が不意に鋭い光を帯びた。
――この気配は。誰かが《転送陣》を使って神殿の中に? いや、この感じは、《ザングノ》だけが使える……そうか、そういうことか。そなたも来たのだな。
ひょっとすると事前に覚悟していたのであろうか、ネリウスは神妙な面持ちで、しかし長々と躊躇するようなことはせず、神殿に入っていく。彼に続いたルキアンとブレンネル。
建物の質素な外観とは裏腹に、神話の諸場面を描いた巨大なフレスコ画が天井に広がり、天の御使いや聖獣たちの彫刻に彩られた柱がそびえ、黄金や漆喰の装飾を凝らした祭壇を中心に、壮麗な礼拝堂が彼らの前に広がる。
上下左右、あちこち見回しながら、ブレンネルは息を呑んだ。
その一方で、ルキアンは前方を凝視したまま動かない。礼拝堂の真ん中に一人の男が立っているのを彼は見た。
「これは? どうして……。よかった、生きていたのですね」
ルキアンは思わず駆け寄る。
「カルバ先生!!」
2.豹変した師? ルキアンの動揺
ルキアンが師の名を叫んで飛び出したとき、透き通った金属音が鳴り響き、聖堂を満たした。堂内全体に染み渡るように、音色は長い余韻を残して消えてゆく。その独特の響きを発したのは、スヴァンやコズマスのものと同じ銀の錫杖だった。これを手にした男――つまりは彼も《ザングノ》の一人なのであろうが――白い僧衣を身につけ、フードを深めに被ったカルバの姿は、ルキアンが見慣れた師のものとは大きく違って感じられた。
いや、衣装以上に、彼のまとった雰囲気、空気感が、これまでとはまったく異なるように思われるのだ。穏やかで貴族的な優雅さを漂わせるいつものカルバとは違う、静かながらも威圧的で攻撃的ですらある威厳に包まれている。
言葉にならない違和感を覚えながらも、ひとまずルキアンは、師が生きていたことを素直に喜んだ。
「カルバ先生、ご無事だったんですね!」
彼がそう言ってもう一歩近づこうとすると、カルバは杖の石突きで床を打ち、銀の奏でる音を再び堂内に響き渡らせた。それはある種の警告に感じられる。しばらく無言でルキアンを見つめた後、カルバは直立不動のままで告げた。
「カルバ・ディ・ラシィエンは、先日、ガノリス王国の都バンネスクと共にこの世から消えた。帝国軍の浮遊城塞《エレオヴィンス》の《天帝の火》による攻撃から、あのとき逃れられた者は、ほとんどいない」
ルキアンは思わず聞き返した。彼にはカルバの言葉の意図がまったく分からない。
「先生、何をおっしゃって……」
「いま君の前にいるのは、カルバ・ディ・ラシィエンではない」
「悪い冗談は止めてください。ご無事で安心しました」
と、ルキアンは、カルバの研究所で起こった一件を思い出し、言葉を呑み込んだ。うつむき気味に彼が話を再開したのは、間もなくだったが。
「先生、研究所が……ソーナが……ヴィエリオ士兄が、その……」
「知っている」
「えっ?」
カルバは、若干、声の具合を強めて繰り返した。
「だからすべて知っている」
「何をおっしゃるのです? 僕には何が何だか……」
突然の再会と、それ以上に唐突に行われたカルバの不可解な言動を前に、ルキアンは頭の中がすっかり白くなってしまったような心持ちになった。眼鏡の下で目を大きく見開いたまま、彼は何か良くない事態を直感的に想定し始めた。
そんなルキアンの気持ちなど意に介さないような様子で、カルバは淡々と語り続ける。どこか独り言にも似た口ぶりであった。
「カルバ・ディ・ラシィエンという居心地のよい殻を脱ぎ捨てようと決意するために、どれだけの時間がかかったことか。それにもかかわらず、バンネスクでの件を機に意を決したすぐそばから、こういう形で君と再会することになろうとはな。いや、もっとも、君とはいずれ会う必要があった」
「僕と? そんなことより、メルカちゃんが先生のことを……早く、一緒に帰りましょう!」
そのとき、カルバが微かに失笑したかのようにみえ、ルキアンは目を疑って師の表情を見つめ直した。
「ルキアン、どこへ帰るというのだ。君が言っているのであろう、ディ・ラシィエンの家も研究所も失われ、彼の家族も離散した。いや、そもそも今の君自身にとって、帰るべき場所というのはどこなのだ」
「それは……」
言葉に詰まるルキアン。たしかに、彼はたった今、ナッソス城の戦場から逃げるように飛び去ってきたところだった。もはやクレドールの仲間のところには居られないのだと。
押し黙って、目に涙を浮かべ始めたルキアンを、ブレンネルとネリウスは黙って見守っている。特にブレンネルにとってはまったく訳が分からない状況なのだろうが、少なくとも他人が軽々に口を差し挟んではいけない事態なのだということは彼も理解していた。
息苦しい沈黙が続く中、次にカルバの発した一言がルキアンを揺るがせた。
「《人の子》のところには戻れないと、君自身、内心では思い始めているのだろう、《闇の御子》よ」
「どうして、それを。先生は一体……」
ルキアンが、もはや驚きの気持ち以上に不信の目を師に向け始めたそのとき、ネリウスは眉間に皺を寄せ、険しい表情でカルバを見た。
【第52話 中編 に続く】
※2013年8~9月に、本ブログにて初公開。