続きます。
元安川に架かる万代橋を渡ります。
橋の上から中電病院が右側に見えます。

橋を渡った中島町通りの河岸です。
桜の木には「クマゼミ」と思われるセミがうるさくに鳴き余計に暑さを増します。
◎ 愛の碑
昭和60年4月10日 序幕(広島工業大学)に。
世界各国の言語で「愛」が記されています。

(暑い中の中島町散策で、会長の好意で皆さんで「ガリガリ君」のアイスを頂きました)
◎ 天満神社
ご祭神: 菅原道真大神
爆心地から300mの至近距離で被爆。
注蓮柱、狛犬等お石造物、疎開していたご神体を残して灰塵に帰した。

◎ 神崎山浄光院西応寺
浄土真宗 本願寺派
ご本尊 :阿弥陀如来


門前の原爆絵碑「第1号」
(市内で全部で10号、公開されています)
墓地の原爆詩人「峠三吉」さんの墓です。
(”ちちをかえせ、ははをかえせ・・・ ”で有名の)
◎ 祈平和BLASILの碑
平成2年建立。
ヒロシマの悲劇を再び繰り返さないという決意と、世界恒久平和への願いを込めて
ブラジルから広島日伯協会を通じて贈られたもの。
◎ マイスカイホール 85
抽象彫刻 作:井上武吉 昭和60年2月設置。

◎ TO THE SKY
作:澄川喜一 平成2年設置。
(澄川喜一さんは島根県出身の彫刻家、そりのかたちをテーマに活躍し、とうきょうスカイツリーのデザインで有名です)

◎ 梶山季之文学碑
平成3年設置。
碑銘「花不語」(花は語らず)は、故人が揮毫に用い、心情の一端を託したもの。


(旧太田川(本川)を遊覧船が通過・広島~宮島)

◎ 野外彫刻「浴女」
平成3年3月 設置。
作 :マイヨール・アリスティード

市の花「キョウチクトウ」の白花です。

「せんだん」の実?
◎ 広島県職員原爆犠牲者慰霊碑
昭和33年8月6日 建立。
この付近は当時の殉職者が多く眠るところで、このゆかりの地を選んで碑を建てた。
原爆の日を前に「掃除」が行われていました。

◎ 旧広島県庁舎
明治11年、当地広島市加古町(当時水主町)に広島県庁舎として建築され、以来67年間
県行政を担ってきたが、原爆で破滅、
その後、安芸郡府中(現マツダ内)、広島市霞町(現大学病院内)を経て
昭和31年(1956)現在の基町へ移転。

◎ 与楽園
享和元(1801)藩主・浅野重晟により、藩主の別邸として隣接する広島藩中屋敷(水主町
屋敷)とともに着工され、文成9年に完成した。
明治以後は県立病院の(当時)庭園となり、原爆で大きな被害を受けたが戦後もしばらく
存続していた。
現在は跡地にアステールプラザなどが建てられ、「与楽園」の名は中島小学校の理科園の名前
として残っている。




(百葉箱、ビオトープ、ガマの穂と懐かしい光景です)
◎ 住吉神社
ご祭神 :表筒男命 中筒男命 底筒男命
由緒 :享保18年(1733)住吉三神と相殿二神を勧請したのに始まる
(節分には、イワシの頭を焼くことで有名、又。おことば少女なる巫女さんも有名でした)


◎ 住吉橋記念燈
藩政時代には藩政橋がなく、明治4年に有志の出資により木造橋が完成し、住民の喜びが大きく
その思いが橋の袂の「記念燈」の建立となった。

現在の「住吉橋」です。

◎ 水主町地藏堂
浅野藩時代に隠岐の島から、伝来したと言われる「首無し地蔵」を大河から、水主町に持ち込み
堂宇を造ってお祭りしたと古くから語り継がれています。
平成8年5月、現在地に移転。
現在お祀りの6体のお地蔵様。

※ 午後12時。
暑い中最後まで皆さん散策しました。
前半の「8月6日通り」は初めてでした。
河岸の緑地は風もあり楽でしたが街中は太陽がまぶしくぐったりでした。
首に巻いた「保冷剤」もすぐ溶けて、凍らせた飲料水をちまちまと、手に持った日傘と
デジカメと・・・
思うように解説のFMもあまり聞けず、サッパリでした。(泣)
36℃という猛暑の中、お疲れ様でした。
住吉町からバスで皆さん帰路に・・・
7600歩、4,3kmのスマホの歩数計です。 - END -
<追記>
2018 8/6 原爆の日
73年目を迎えました。
犠牲になられた御霊のご冥福を祈念致します。
(画像はTVから)
元安川に架かる万代橋を渡ります。
橋の上から中電病院が右側に見えます。

橋を渡った中島町通りの河岸です。
桜の木には「クマゼミ」と思われるセミがうるさくに鳴き余計に暑さを増します。

◎ 愛の碑
昭和60年4月10日 序幕(広島工業大学)に。
世界各国の言語で「愛」が記されています。

(暑い中の中島町散策で、会長の好意で皆さんで「ガリガリ君」のアイスを頂きました)
◎ 天満神社
ご祭神: 菅原道真大神
爆心地から300mの至近距離で被爆。
注蓮柱、狛犬等お石造物、疎開していたご神体を残して灰塵に帰した。


◎ 神崎山浄光院西応寺
浄土真宗 本願寺派
ご本尊 :阿弥陀如来


門前の原爆絵碑「第1号」
(市内で全部で10号、公開されています)

墓地の原爆詩人「峠三吉」さんの墓です。
(”ちちをかえせ、ははをかえせ・・・ ”で有名の)

◎ 祈平和BLASILの碑
平成2年建立。
ヒロシマの悲劇を再び繰り返さないという決意と、世界恒久平和への願いを込めて
ブラジルから広島日伯協会を通じて贈られたもの。

◎ マイスカイホール 85
抽象彫刻 作:井上武吉 昭和60年2月設置。

◎ TO THE SKY
作:澄川喜一 平成2年設置。
(澄川喜一さんは島根県出身の彫刻家、そりのかたちをテーマに活躍し、とうきょうスカイツリーのデザインで有名です)

◎ 梶山季之文学碑
平成3年設置。
碑銘「花不語」(花は語らず)は、故人が揮毫に用い、心情の一端を託したもの。


(旧太田川(本川)を遊覧船が通過・広島~宮島)

◎ 野外彫刻「浴女」
平成3年3月 設置。
作 :マイヨール・アリスティード

市の花「キョウチクトウ」の白花です。

「せんだん」の実?

◎ 広島県職員原爆犠牲者慰霊碑
昭和33年8月6日 建立。
この付近は当時の殉職者が多く眠るところで、このゆかりの地を選んで碑を建てた。
原爆の日を前に「掃除」が行われていました。


◎ 旧広島県庁舎
明治11年、当地広島市加古町(当時水主町)に広島県庁舎として建築され、以来67年間
県行政を担ってきたが、原爆で破滅、
その後、安芸郡府中(現マツダ内)、広島市霞町(現大学病院内)を経て
昭和31年(1956)現在の基町へ移転。

◎ 与楽園
享和元(1801)藩主・浅野重晟により、藩主の別邸として隣接する広島藩中屋敷(水主町
屋敷)とともに着工され、文成9年に完成した。
明治以後は県立病院の(当時)庭園となり、原爆で大きな被害を受けたが戦後もしばらく
存続していた。
現在は跡地にアステールプラザなどが建てられ、「与楽園」の名は中島小学校の理科園の名前
として残っている。





(百葉箱、ビオトープ、ガマの穂と懐かしい光景です)
◎ 住吉神社
ご祭神 :表筒男命 中筒男命 底筒男命
由緒 :享保18年(1733)住吉三神と相殿二神を勧請したのに始まる
(節分には、イワシの頭を焼くことで有名、又。おことば少女なる巫女さんも有名でした)


◎ 住吉橋記念燈
藩政時代には藩政橋がなく、明治4年に有志の出資により木造橋が完成し、住民の喜びが大きく
その思いが橋の袂の「記念燈」の建立となった。

現在の「住吉橋」です。

◎ 水主町地藏堂
浅野藩時代に隠岐の島から、伝来したと言われる「首無し地蔵」を大河から、水主町に持ち込み
堂宇を造ってお祭りしたと古くから語り継がれています。
平成8年5月、現在地に移転。
現在お祀りの6体のお地蔵様。

※ 午後12時。
暑い中最後まで皆さん散策しました。
前半の「8月6日通り」は初めてでした。
河岸の緑地は風もあり楽でしたが街中は太陽がまぶしくぐったりでした。
首に巻いた「保冷剤」もすぐ溶けて、凍らせた飲料水をちまちまと、手に持った日傘と
デジカメと・・・
思うように解説のFMもあまり聞けず、サッパリでした。(泣)
36℃という猛暑の中、お疲れ様でした。
住吉町からバスで皆さん帰路に・・・
7600歩、4,3kmのスマホの歩数計です。 - END -
<追記>
2018 8/6 原爆の日
73年目を迎えました。
犠牲になられた御霊のご冥福を祈念致します。

(画像はTVから)