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【強者にすり寄らず弱者によって立った田中角栄】多くの国民が田中角栄のことを愛したのは“庶民・弱者”の立場で発想したから

2022-12-02 12:21:31 | 日記

 


■強者にすり寄らず弱者によって立った角栄

週刊ポスト2012年12月21・28日号 2012.12.13

https://www.news-postseven.com/archives/20121213_159689.html?DETAIL


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衆院選投票日を目前に控え、「週刊ポスト」では各界の識者に日本史上最高のリーダーというテーマで緊急アンケートをとった。

経済アナリストで獨協大学教授の森永卓郎氏は、今から約40年前、「今太閤」と呼ばれブームを巻き起こした田中角栄を選んだ理由を語った。


金権政治批判がつきまとった田中角栄元首相ですが、私は、「格差を縮めて、日本の平等主義の原点をつくった政治家」として高く評価しています。

むしろ田中角栄のような政治家がいないことを嘆いているほどです。


田中角栄は29歳で衆院選に初当選し、39歳での郵政相(現総務相)を皮切りに、出世の階段を昇っていきました。

首相に就任したのは、54歳の時です。


田中角栄という政治家は、実は、政治家になって以来、その信念が首尾一貫しているんですね。

それは、年寄りから赤ちゃんまで、等しく幸せな社会をつくる、ということです。

これは出身地の新潟という環境が影響しています。


当時の新潟は雪深く閉ざされ、冬になると一家の大黒柱は都会に出稼ぎに出ました。

当然、家族はバラバラです。

何とか、家族一緒に幸せに暮らせないものか。

そう考えた田中角栄は、全国に高速道路を通したのです。

これによって、全国の物流が完成しました。


著書『日本列島改造論』にはこうあります。

<工業再配置と交通・情報通信の全国的ネットワークの形成をテコにして、人とカネとものの流れを巨大都市から地方に逆流させる“地方分散”を推進することにした>


公共事業は、何かと批判される対象ですが、田中角栄は公共事業によるお金のバラマキを目的にしていたわけじゃないんですね。

目線の先には、「地方の福祉」があったのです。

これで、冬の出稼ぎはなくなっていきました。


年金もそうです。

田中内閣の時代に「福祉元年」と銘打って、今まで支払っていない人にも年金を支給するようになりました。

彼のお陰で、今の年金のカタチがある。


政策への批判はありますが、年金のない日本、高速道路のない日本を、想像できませんよね? 

だって私たちの生活は、そこに支えられているんですから。


田中角栄がよって立ったのは、「地方」のような、常に社会的弱者でした。

弱者の立場から、すべてを発想したのです。


このあたりが、今の政治家にはない発想です。

橋下徹さんも大都市大阪、石原慎太郎さんも東京、安倍晋三さんも選挙区は山口ですが、生まれも育ちも東京です。


小泉純一郎元首相も野田首相も首都圏の出身。

彼らは、大都市――強者の立場から政治を発想しているんですね。


外交でもそうです。

田中角栄はアメリカという強者にすり寄ろうとせず、例えば日中国交回復など、他の国に目を配りました。

これも平等思想のなせるわざでしょう。

 

※週刊ポスト2012年12月21・28日号

 

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強者にすり寄らず弱者によって立った角栄
週刊ポスト2012年12月21・28日号 2012.12.13
https://www.news-postseven.com/archives/20121213_159689.html?DETAIL

 

 

 

 

 

 


■庶民の顔を立てる「天才」だった田中角栄

産経新聞(iRONNA)岩田温

https://www.sankei.com/article/20160618-5WSTDXYMV5LBVDWTNJHPCKSYIA/3/


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田中角栄といえば、金権政治の象徴のような人物で、私はほとんど興味を持てなかった。

積極的に田中角栄から学ぼうという気持ちになれなかったからだ。


そんな私が田中角栄に興味を持ったのは、ある先輩との出会いからだ。

大学生だったか大学院生の頃だったか、判然としないのだが、今から10年ほど前に、静岡県のある勉強会に講師として招かれた。


その講演会で司会を務めていたのが早稲田大学のOBの中小企業の社長だった。

講演会では「岩田先生」と持ち上げてくれたが、二次会では「岩田君」と呼ばれ、色々とお話を伺った。


「中小企業がこの国を支えてるんだ。大企業なんて入れるのは本当にごく少数。中小企業が元気にならなければ、日本は元気にならない」


中小企業の社長の悲哀について語ることが多かったが、その夜、私に厳しい指摘をしてくれたことが心に残ってる。


「岩田君の話は、ほとんど賛成だけど、難しすぎる。憲法、大東亜戦争、保守主義も、普通の人には難しいんだ。『普通の人』っていったときに、岩田君は自分の友達を想定するだろう。それがインテリの悪い癖なんだ。中小企業で働いてるおじさん、パートに出てるおばさんが、普通の人なんだ。大学なんかいってないし、本なんて読まない。新聞も社説を読むのは難しい。それが普通の人なんだ。こういう人たちがほとんどなんだ」


確かに指摘された通りなのだが、それでは学問は成り立たないではないか、と反論すると、先輩は問いかけてきた。

「田中角栄、どう思う?」


私は、正直に、そんなに興味がないと答えると先輩はつづけた。

「そうだろう。だから、まだ未熟なんだ。多くの国民が角さん、角さんと慕う理由を考えたことあるか。まずは、田中角栄について勉強しろ」


先輩の話も一理あると納得する部分もあったし、そこまでいうなら、次回は田中角栄論でも戦わせてやろうと考えて、その日以来、田中角栄に関する本を本格的に読み始めた。

多くの角栄論があったが、一番興味深かったのは、やはり早坂茂三の角栄論だった。


もちろん、側近であった早坂が書くのだから、美化している部分も多いだろうし、負の側面については触れていないものも多いだろう。


だが、私は田中角栄を断罪しようと本を読み始めたのではなく、何故、多くの国民が田中角栄が好きだったのかを考察しようとしていたので、俗にいう「金権政治」の部分に関してはそれほど神経質にならずに読み進めた。


多くの国民が、田中角栄のことを愛したのは、庶民の心、弱者の心を読み解く天才だったからに他ならない。

思想やイデオロギーではなく、庶民の「生活」を重視し、一人一人の顔を立てる天才だった。


早坂の著作から、幾つかの象徴的な逸話を引用しておこう。

まずは、選挙の際に、全国の候補者に現金を配るときの心構えについての指導だ。


「この金は、心して渡せ。ほら、くれてやる。ポン。なんていう気持ちが、お前に露かけらほどもあれば、相手もすぐわかる。それでは百万円の金を渡しても、一銭の値打ちもない。届けるお前が土下座しろ」(『駕籠に乗る人担ぐ人』詳伝社、70頁)


「届けるお前が土下座しろ」

常識では考えられない指導だが、確かに、政治家はプライドが高い。

そうしたプライドの高い政治家に高飛車な態度で金を配れば、面従腹背というような事態になることも予想されよう。


一見突拍子もないような指導だが、田中角栄の指導は恐ろしいまでに具体的だ。

角栄に対する報告の仕方についても早坂に指導している。


「角栄は私に対してオレに言うことがあれば、初めに結論を言えと命じた。そして、理由は三つに限定しろ。それは口で言うな。口で言っても、ほかに仕事が多いから忘れる。メモしろ。便箋用紙一枚に大きめの字で書け。」(『捨てる神に拾う神』詳伝社 57頁)


また、初めて新潟三区の選挙応援に入る際には、次のような指導をしたという。

「ウソをつくな。すぐばれる。気が利いたことを言おうとするな。後が続かない。若い君が本当に思っていることを話せ。自分の言葉で喋りなさい。借りものは駄目だ。大声を出し、汗まみれでやれ。お百姓衆を侮って手抜きをするな。火の玉になることだ。それで他人様が燃えてくれる。小理屈で人間は動かない」(『鈍牛にも角がある』光文社、145頁)


「小理屈で人間は動かない」。

人間を動かすのは理性ではなく、情熱であり、飾らない姿勢だということだろう。


つくづく思うのは、田中角栄という人物は「世知」に長けた人物であったということだ。

全てが計算されているが、その計算は、「普通の人」を大切にしようとする温かさから生まれた計算で、決して冷たい計算ではない。

愛情と知性というものが、必ずしも相反する存在ではないということを証明したのが田中角栄の人心掌握術というものだろう。


日本人、若い人々に対する愛情を感じさせる逸話も紹介しておこう。


ある日、フランスの高級紙『ル・モンド』の極東総局長ロベール・ギランが、角栄と会っている際、自民党の党本部前を「アンポ、反対」の叫び声をあげながら、デモ行進する若者たちがいた。

ロベール・ギランが、角栄に、その若者たちの評価を問うた際、角栄は次のように答えたという。

「彼らは日本の大事な息子たちです。いま、ハシカにかかっているが、間もなく直る。学窓を出て、社会人になり、世帯を持って、子どもができ、父親になれば、世の中が理想や理屈どおりにいかない、それがわかってくる。大学でろくに勉強もせず、マージャンだこを作り、女の子の尻を追いかけ、外車の名前ばかり覚えてくる者に比べて、連中のほうが、はるかにみこみがあります。バカとハサミは使いようである。使うほうさえ、しっかりしていれば、将来、あの学生たちは世の中の役に立つ」(『駕籠に乗る人 担ぐ人』138-139頁)


愛情をもって一人ひとりに気を配りながら、「普通の人」の「生活」を第一にという政策を掲げたのが田中角栄だった。

 

・岩田温
昭和58(1983)年生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科修了。専攻は政治哲学。著作は『逆説の政治哲学』(ベスト新書)、『政治とはなにか』(総和社)、『日本人の歴史哲学』(展転社)、『人種差別から読み解く大東亜戦争』(彩図社)など。


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庶民の顔を立てる「天才」だった田中角栄
産経新聞(iRONNA)岩田温
https://www.sankei.com/article/20160618-5WSTDXYMV5LBVDWTNJHPCKSYIA/3/

 

 

 

 

 


■【最後の秘書が語る】田中角栄は、結局何が凄かったのか?

『角栄の「遺言」 「田中軍団」最後の秘書 朝賀昭』(著:中澤雄大)2016.06.07 講談社BOOK倶楽部

https://news.kodansha.co.jp/20160607_b01


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“コンピュータ付きブルドーザー”“今太閤”“金権政治家”“巨悪”“闇将軍”、はては“永田町のカサノバ”までさまざまな異名(あだ名)で呼ばれた田中角栄、戦後最大の政治家として今でもことあるごとに名前がとりざたされています。


彼についての書籍も批判的なもの、肯定的=待望論、評価の見直しを迫るものなど数多く出版されています。

最近でも石原慎太郎の『天才』が話題になりました。


石原慎太郎といえばロッキード事件のあと、金権政治家・田中角栄を批判し青嵐会を立ち上げた一人です。

その人であっても、年月がたって田中角栄の見直しがあったのでしょうか。

その『天才』のもと(参考)になったのがこの本です。


田中角栄の元秘書の話というと、角栄贔屓の話とか政界の裏話が書かれているように思われがちですが、この本はそのようなワイドショー=ゴシップのたぐいではありません。

政治家として、それ以上に人間としてどのように田中角栄が生きてきたかを実にビビッドに描いています。

田中角栄の肉声が聞こえてくるようです。


──オマエと二人三脚でとうとうここまで来たなぁ。(略)大臣には誰だってなれる。党三役はそうはいかない。ましてや、総理総裁はなろうと思ってもなれるものではない。明日車にはねられるかもしれないし、天の味方も必要だ。なりたくないと思ってもならなければならないこともある。──


ポスト佐藤栄作をうけて福田赳夫と総裁の座を争っていた時、角栄が“越山会の女王”とよばれた佐藤昭と交わした言葉です。

ここにあるのは自分の使命と天命の自覚、そしてそれを目指す努力と克己であり、ともに歩むものへの感謝と励ましがあふれています。


この本が一貫して追っているのは田中角栄の“心情”です。

それがどのように現れているのか……、


──私が田中角栄だ。小学校高等科卒業である。諸君は日本中の秀才代表であり、財政金融の専門家ぞろいだ。かくゆう小生は素人だが、トゲのある門松は、諸君よりいささか多くくぐってきている。いささか仕事のコツは心得ているつもりである。私はできることはやる、できないことは約束しない。これから一緒に国家のために仕事をしていくことになるが、お互いが信頼し合うことが大切である。従って今日ただ今から大臣室の扉はいつでも開けておく。事務次官ばかりでなく、今年入省した若手諸君も、誰でも我と思わんものはなんでも言ってきてくれ。上司の許可を取る必要はない。思い切り仕事をしてくれ。しかし責任のすべてはワシが背負う。以上。──


これは大蔵大臣(現財務大臣)就任時に大蔵官僚を前にした着任演説の一節です。

角栄の本領が遺憾なく発揮されています。

人心掌握は文字通り“心”をもって相手の“心”をつかむことなのでしょう。

相手を利用するというせこい了見ではなく、相手の心をつかみ、自ずから力を出すようにさせるということが、実は相手をよく使うことになるということがみてとれます。

と同時に“情の人”という側面を見せることで、相手を引きつけるという角栄の魅力があることがわかります。


これと対極にあった人物が“バルカン政治家”と呼ばれた三木武夫でした。

三木元首相はどのような政治家だったのか。

あとがきで安倍晋三首相との類似性に触れてこう語っています。


──使っちゃいけない最高権力者の“クスリ”を三木が使い、安倍も使った。三権の上を行く最高権力者の意志でどうにでもなるんだと。ある意味、まやかしをやったんだよ。──


三木武夫はロッキード事件で「政権延命」のために「日本の刑事訴訟法にない嘱託尋問という禁じ手」を使って角栄の追い落としをはかり、また安倍総理もまた「政権延命」のために「最高権力者の意志でどうにでもなる」という“クスリ”を使ったのです。

それは政治的な暴走です。


それはともあれ、この本の強い魅力は田中角栄の“心と情”をはっきりと打ち出したところにあると思います。

他の角栄本と一線を画しているところです。


佐藤昭とのこと、その家族に向けられた角栄の“心と情”は胸に迫るものがあります。

佐藤昭へあてた短い“ラブレター”を始め、娘を気づかう親としての角栄の気持ちが胸を打ちます。


もちろんそれだけにとどまらず、角栄が引き上げた政治家、小沢一郎、後藤田正晴たち、秘書たちに対しても、時には政敵にすら“情”をかけてきた姿がこの本ではいたるところに描かれています。

だみ声の裏に、細やかな神経を持っていた希有の政治家でした。


その一方で、政治家の決断の勇も感じさせる人でした。

それまでの佐藤栄作の“待ちの政治”に倦(う)んだ国民に“決断と実行”をとなえる角栄の姿勢は国民にきわめて新鮮に受け止められたのです。

これも角栄ブームを作った一因となりました。


実行された政策は、国内では列島改造、外交では日中国交正常化、独自な“資源外交”と目まぐるしいものでした。

けれど、日本の地方の発展を意図したであろう列島改造は狂乱物価を生み、資源外交はアメリカの強い反発を招いてしまいます。(このアメリカの反発がのちのロッキード事件につながっているという説があります)


読んでいるとふと思います、ブームを巻き起こした1972年7月の総理就任から1974年12月の退陣までの2年半の在任期間のうち角栄の真価が発揮できたのは一体どれくらいあったのだろうかと。

1973年には物価が急上昇し、1974年には『文藝春秋』に「田中角栄研究」「淋しき越山会の女王」が掲載され、反角栄の動きが顕在化するようになりました。


この本の後半は角栄の無念の胸の内、それを支えた佐藤昭たちのことが語られています。

追い打ちをかけるように現れたロッキード事件……。

無罪判決を勝ち取るべく奮闘する角栄ファミリー。

そしてお膝元の田中派内部での二階堂進擁立騒動、さらには竹下登(もはやDAIGOのおじいちゃんと言ったほうがわかりやすいかもしれません)の造反劇と追い詰められた角栄は後退戦を戦う中、病に倒れます。

田中ファミリーもその終焉へと向かっていきます。


岸信介、池田勇人、福田赳夫、三木武夫、大平正芳、中曽根康弘、宮沢喜一、竹下登、小沢一郎、羽田孜等々多くの政治家がこの本に登場しますが、その誰もが角栄とのスケールの差を感じさせます。

それは決して朝賀さんの身びいきではないと思います。

その解く鍵は、やはり佐藤昭、その娘に向けられた角栄のあまりにも人間的すぎる情愛にあるのではないかと思います。


政治家であると同様に人であろうとし、故郷への思いを忘れずに政治家となった原点を失っていなかった、そう思える個所がこの本のいたるところにあります。


こんな言葉が残っています。


──経済成長があまりに高いときには、力のあるものがますます伸び、格差が拡大する傾向にあり、逆に景気が後退するときには、これまた優勝劣敗が顕著に現れ、格差が拡大するものであります。──


1962年の代表質問での言葉です。

高度成長期のまっただ中でこの見識を有していた政治家はほかにはいませんでした。

田中角栄が戦後最大の政治家と目されるゆえんです。

その等身大の姿を知るうえでも今読まれるべきものだと思います。


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【最後の秘書が語る】田中角栄は、結局何が凄かったのか?
『角栄の「遺言」 「田中軍団」最後の秘書 朝賀昭』(著:中澤雄大)2016.06.07 講談社BOOK倶楽部
https://news.kodansha.co.jp/20160607_b01

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


■東京地検とは?

・特別捜査部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%8D%9C%E6%9F%BB%E9%83%A8

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【東京地方検察庁特別捜査部】通称「東京地検特捜部」。

東京地検特捜部が連合国軍による占領下で、旧日本軍が貯蔵していた隠退蔵物資を摘発してGHQの管理下に置くことを目的に設置された「隠匿退蔵物資事件捜査部」としてスタートした経緯や特捜部エリートに駐米大使館の一等書記官経験者が多いことから、「アメリカの影響を受けている」とする見方がある。

また、捜査対象が歴史的に木曜クラブの流れを汲む平成研究会系列(田中派―竹下(登)派―小渕派―橋本派―津島派―額賀派―竹下(亘)派―茂木派)の政治家に集中する一方で、党風刷新連盟を興りとする清和政策研究会系列(福田派―安倍(晋太郎)派―森派―町村派―細田派―安倍(晋三)派)の政治家は多くが免れていることから、「捜査対象が偏っているのではないか?」という主張がある。

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特別捜査部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%8D%9C%E6%9F%BB%E9%83%A8

 

 

 

 

 


■CIAに支配され続けた日本政治の基本構造

「摘発される人・されない人」

植草一秀(2010年1月21日)

http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/cia-a85b.html

 

 

 

 

 


■孫崎享。戦後史の正体。東京地検特捜部とCIAの工作。小林興起。

孫崎享氏と小林興起氏のトーク

youtube

https://www.youtube.com/watch?v=3zTtb1pe8-4

 

 

 

 


■なぜ日本は壊れていったのか…「ロッキード・リクルート事件」の真相

 

現代ビジネス(講談社)2021.03.23

 

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/81104

 

 

 

 


■冤罪 田中角栄とロッキード事件の真相
「この事件には陰謀が絡まっている。底が深すぎるし、奇々怪々だ」


産経ニュース 2016/7/25 石井一


https://www.sankei.com/premium/news/160723/prm1607230016-n1.html

 

 

 

 


■安倍晋三首相が愛してやまない祖父、岸信介がA級戦犯を逃れるため米国と交わした裏取引きが!

「岸がアメリカから言われた最大のミッション」「アメリカの資金でつくられた首相」

exciteニュース 2015年8月17日 野尻民夫

https://www.excite.co.jp/news/article/Litera_1400/

 

 

 

 

 

 

■「アメリカによる支配」はなぜつづくのか?

原因は、安倍元首相祖父の岸信介がアメリカと結んだ3つの密約にあった!

PR TIMES  2018年12月26日  株式会社旭屋書店 矢部宏治

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000105.000013301.html

 

 

 

 

 

■「田中角栄に今の日本を任せたい」

 

角川SSC新書 (角川新書)大下英治

 2011年11月10日

 

https://www.kadokawa.co.jp/product/201105000506/

 

 

 


【田中角栄「俺の目標は年寄りも孫も一緒に楽しく暮らせる世の中をつくること」】コロナ禍「田中角栄」が総理だったらこの難局で何をやるか~

2022-12-02 12:20:12 | 日記

 


■コロナ禍で迷走する安倍政権 「田中角栄」が総理だったらこの難局で何をやるか

「俺の目標は、年寄りも孫も一緒に楽しく暮らせる世の中をつくること」

「後代の日本人から褒められるような新しい政治と取り組もうではありませんか」

週刊新潮 2020年4月21日

https://www.dailyshincho.jp/article/2020/04210556/?all=1

 

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コロナ禍で日本中が苦難を強いられている中、安倍内閣の支持率が急落している。

4月14日に共同通信が発表した世論調査(4月10~13日)では「支持しない」が43・0%で、「支持する」の40・4を上まわった。

その上、緊急経済対策で日本経済の回復が期待できると答えた人は僅か1・2。

この国難の時に伝説的政治家・田中角栄氏が宰相だったら、どんな手を打つのか。

 

・田中角栄のプライドをくすぐる「殺し文句」とは

 

「田中角栄さんは水害などの自然災害があると、常識外れの予算を付けた。角栄さんが生きていたら、大型の経済対策をやったに違いありません」


そう語るのは、著書に『指導者の条件―田中角栄に、なぜ人が集まったのか』(光文社文庫)などがある政治評論家で田中角栄研究の第一人者・小林吉弥氏である。


田中氏は郵政相、大蔵相、通産相を歴任した後、1972年に54歳の若さで首相に就任した伝説的な人。

74年の首相退任後も政界に強い影響力を持ち続けた。


生前の田中氏の持論の一つは「金というものはチマチマ使うより、ここぞという時、一気に使え。そのほうが効果は何倍も大きい」だった。

今回、政府が打ち出した新型コロナウイルス対策の緊急経済対策も事業規模約108兆円(GDPの2割)になる見通しで、巨額だ。


ただし、「ハリボテ」と指摘され、評判が悪い。

なにしろ社会保険の納付猶予分などもカウント。


「真水」と呼ばれる政府の財政支出は約20兆円に過ぎないと見られるのだから。

国民への現金給付も当初は収入急減世帯に限って30万円を配る予定で、総額は約4兆円に留まる予定だった。


ところが、新型コロナ禍で苦境に立たされている世帯は数多いので国民から不満が噴出し止まらなかった。

足下の自民党、連立与党の公明党からも酷評された。


このため、一転して1人一律10万円を給付することに。現金給付の総額は単純計算で12兆円に膨らんだ。

とはいえ、政府の吝嗇さと決断力の鈍さを示す形になってしまった。


再び小林氏が語る。

「安倍政権は当初、給付金支給世帯には複雑な制限を設け、絞り込む予定でしたが、角栄さんなら最初から単純明快に『1人いくら』で支給したはずです。当初の支給対象世帯の説明をすぐ理解できる人なんて、そういなかったでしょうから。角栄さんはお年寄りでもすぐ分かるような仕組みでないと認めなかった」(小林氏)


また、今回の給付金が配られるのは早くても5月中と見られるが、田中氏なら違ったはず。田中氏のスタイルはこうだったからだ。

「結論が出たらすぐに実行するのが、私の流儀」(田中氏の言葉)。


そもそも田中氏は庶民のために政治家になった人である。

家業を継ぐ形で議員になったのではない。


このコロナ禍においても人々を泣かすまいと懸命になっただろう。

「俺の目標は、年寄りも孫も一緒に楽しく暮らせる世の中をつくること」(田中氏の言葉)「国民のための政治がやりたいだけ」(同)


背景には自らが経験した貧困と出征の経験がある。

旧制高等小学校を首席で卒業しながら、家が貧しく、進学できなかった。


また、旧陸軍で終戦までの6年間、一兵卒として辛酸を舐め続けた。

自分の経験した苦労を、次代の日本人には味わわせたくなかった。


「昔は政治家になる時の意識が違いました。かつては政治家になりたい理由がはっきりしていた。『困っている人を助けたい』とか『貧しい人を救う』とかです。今は国が豊かになったせいもあるのでしょうか、相対的にそういう考えを抱いて政治家になった人が少ない」(前出・小林氏)


ただし、田中氏は学力エリート集団である官僚のウケも抜群だった。

「コンピューター付きブルドーザー」と呼ばれるほど頭脳明晰で、行動力もあったからだ。責任逃れをしないことも官僚にとっては頼もしかった。


「今回の新型コロナ問題の大型経済対策を角栄さんがやったら、その財源まで自ら考え出し、官僚を納得させたでしょう。田中政治が可能だったのは、高度経済成長下で、国家に潤沢な予算があったからと言う人がいますが、それは違う。官僚の発想にはない税源を見つけてきて、それをどう使うかを考えたのです」(前出・小林氏)


財源がないから、官僚は金を出し渋る。

だが、田中氏は自分で財源を生み出した。


例えば、田中氏は1952年、道路整備の財源を捻出するため、ガソリン税を議員立法で成立させた。

ガソリン税は道路を作るためだけの特定財源となった(2009年には使途が限定されない一般財源に)。


1949年度時点の国道と都道府県道の舗装率は僅か2・1%。全部舗装するには100年以上かかると指摘され、復興の大ブレーキになると見られていた。

だが、田中氏が財源を編み出したことにより、舗装は進み、復興のピッチも上がった。


ガソリン税は安くはなかったものの、ポイントは受益者負担にしたこと。

舗装道路を使うドライバーが税を支払う形にした。


田中氏は公平性を重んじた。

危機時の田中氏の活躍で圧巻だったのは大蔵相時代の1965年に行わせた日銀特融だ。


それにより山一證券は倒産を回避した。

「誤解する向きもあるが、あの特融は山一という会社の救済のために行われたわけではない。当時は機関投資家が少なく、山一が倒れたら、多くの個人投資家が被害を蒙った。角栄さんはそれを避けようとした」(前出・小林氏)


山一が倒産した場合、証券会社への不信と不安が募り、景気に甚大な悪影響が出るのは必至だった。

半面、日銀特融はそれまで一度として使われたことがなく、日銀は難色を示した。


田中氏も最初は山一のメインバンクである日本興業銀行(当時)、三菱銀行(同)、富士銀行(同)に救済させようと目論み、3行の頭取を集めて協議を行った。


ところが、その場で三菱銀行の頭取が「2、3日取引所を閉鎖して、ゆっくり対応策を考えたらどうですか」と提案したことから、田中は声を荒らげた。

「君はそれでも銀行の頭取か!」。


事実、山一の支店には既に投資家が殺到していた。

解約の累計は6日間で実に177億円。


国民の利益を守ることを考えると、待ったなしの局面だったのだ。

結局、「日銀にしか山一は救えない」という流れになり、田中氏のリーダーシップによって特融が決定。


メインバンク3行を通じ、282億円が無制限、無担保で山一に融資された。

これにより山一の倒産と証券会社不安は回避された。


仮に山一が返済できなかったら、田中氏の責任問題に発展していただろう。

だが、田中氏は山一の再建を確信していた。

事実、282億円は4年4カ月で完済されている。


新型コロナ対策では政府の対応の遅さ、政府と都の話し合いの長さが批判されているが、これも田中氏には許せなかったに違いない。

長い会議を極端に嫌ったからだ。


「会議の長さは出席者数の二乗に比例し、会議の成果は出席者数の二乗に反比例する」(田中氏の言葉)

「ドケチ」とも揶揄される今回の緊急経済対策の設計図を描いたのは財務官僚ではなく、安倍内閣を支える経産官僚とされる。


いずれにせよ、田中氏が宰相なら、官僚たちのモチベーションは違ったのではないか。

「今の政治家には官僚を掌握する能力はない。今の官僚は『安倍さんを総理にしていれば、やりやすいし、ポストもまわってくる』といった考えでしょう」(前出・小林氏)


田中氏が蔵相に就任した際の省内での挨拶は官僚たちの間で語り草だ。

小学校卒の新大臣を冷ややかに出迎えたエリート官僚たちをやる気にさせた。

この時、田中氏は44歳の若さだった。

「私が田中角栄だ。小学校高等科卒業である。諸君は日本中の秀才代表であり、財政金融の専門家ぞろいだ。私は素人だが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきて、いささか仕事のコツを知っている。一緒に仕事をするには互いによく知り合うことが大切だ。我と思わん者は誰でも遠慮なく大臣室に来てほしい。何でも言ってくれ。上司の許可を得る必要はない。出来ることはやる。出来ないことはやらない。全ての責任はこの田中角栄が背負う。以上」(1962年、田中氏の蔵相就任時の挨拶)


こんな大臣はいなかった。

その上、人情味もあるのだから、官僚たちはぞっこんになった。

田中氏の頭の中には官僚たちの出身地、入省年次から、家族構成まで入っており、夫人の誕生日には花を贈っていた。


田中氏はこんな言葉も残している。

「後代の日本人から褒められるような新しい政治と取り組もうではありませんか」

新型コロナ対策は10年後、20年後の日本で評価を得られるだろうか。

 

・高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
ライター、エディター。1990年、スポーツニッポン新聞社入社。芸能面などを取材・執筆(放送担当)。2010年退社。週刊誌契約記者を経て、2016年、毎日新聞出版社入社。「サンデー毎日」記者、編集次長を歴任し、2019年4月に退社し独立。


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コロナ禍で迷走する安倍政権 「田中角栄」が総理だったらこの難局で何をやるか
週刊新潮 2020年4月21日
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/04210556/?all=1

 

 

 

 

 

 

 

■「田中角栄」と「安倍晋三」を比べたら コロナ対応を“シミュレーション”

「こういう時こそ、選挙などなくても政治家は地元に帰り『何とか乗り切ろう』とみんなを元気づけてこい、角栄さんならそうおっしゃったんじゃないかな」

週刊新潮 2020年6月4日

https://www.dailyshincho.jp/article/2020/06070600/?all=1


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サイズの小さい「アベノマスク」を着け続ける安倍総理。

その妙な頑なさを見ているだけでも、この人で大丈夫なのかと不安になる。


では、どのような人物がリーダーなら国民は安心できるのか。

伝説的政治家・田中角栄がもしも生きていたら――というシミュレーションを行ってみると、理想のリーダー像が見えてきた。


危機に直面した時、リーダーの姿勢や、発する言葉が極めて重要になることは言うまでもない。

「角栄さんは、国民から批判を浴びそうなものも、そうでないものもきちんと誠実に説明する方でした」と、角栄の元番記者で新潟日報社長の小田敏三氏は言う。


「今回、安倍さんが批判されているのは、マスク配布、PCR検査、検察庁法改正案、どれを取っても誠実な説明がないから。国民は何かを隠されているのではないかと疑ってしまいますし、政権に対して信頼感、安心感を持てません。角栄さんにだってもちろんやれることとやれないことがあったでしょうが、やれないことはやれない、とはっきり説明したはずです」


無論、角栄はパフォーマンスにも興味がなく、「安倍さんのように自分が自宅でくつろぐ様子を動画で配信しようだとか、小池百合子都知事のように、イギリスのジョンソン首相を真似て『ステイホーム』『東京アラート』などと口にするような発想は一切なかったでしょう」


そう語る小田氏は、次のような角栄の言葉にこそ、政治家としての姿勢がよく表れている、と指摘する。


「政治とは生活だ。政治の仕事は国民の邪魔になる小石を丹念に拾って捨て、国でないと壊せない岩を砕いて道をあける。それだけでいいのだ。政治家は目立たず国民の後ろに控えていて、三度の飯を食べさせられたらそれでいい。政治は吹き過ぎていく風でいい」


同様の姿勢で仕事をしている政治家が今、永田町にどれくらいいるだろうか。


「角栄さんは、ある時は政界に影響力を持ち続ける闇将軍、ある時はロッキード事件の刑事被告人である金権政治家、またある時は新潟の貧しい家から高等小学校卒で総理大臣にまでなった今太閤と、まるで多面体のようにいろいろな見方ができる政治家です。しかし、角栄さんが政治家としてとても真摯であったことは間違いありません」と、小田氏は続けて語る。


「政治とは、決して上から目線ではなく、国民が苦労して汗をかいた分だけ報いなければならない、という考え方を角栄さんは持っていた。角栄さん本人が戦争を経験し、戦後、高等小学校卒で建設会社を興し、苦労してきた方なので、人の痛みや苦しみが分かる。だからこそ彼の言葉には説得力があったのだと思います」


そんな角栄とて、今回のような未曾有の災禍を前に、たった一人で戦うことはできまい。


「たとえ政敵であっても、きちんと対話できるのがオヤジさんでした。だから、オヤジさんだったら、コロナに打ち勝つためにまず内閣改造をすると思います。何よりもコロナ対策を重視しなければならない今は、平時と考え方を変えて、挙党体制を作るはずです」


角栄の元秘書の朝賀昭氏はそう話す。


「1973年の内閣改造で、オヤジさんは自分の右腕ともいわれた大蔵大臣の愛知揆一の後任に福田赳夫を任命しました。角福戦争といわれるほど激しく争った相手を抜擢したのです。当時は列島改造論やオイルショックによって、インフレ抑制策を取る必要に迫られていた。敵が外にあるなら、たとえ政敵であっても能力のある人物を登用すべきだと考えたのでしょう。そしてそう考えたらすぐに実行できる政治家だった」


角栄がロッキード事件で逮捕された後、初めてのインタビューに成功したモンゴル日刊紙東京特派員の佐藤修氏は、「角栄さんなら、コロナについて政治家が徹底的に議論し、党派を超えて対策を練る場、例えば、コロナ対策特別委員会などをすぐに用意したのではないか」と、語る。


「角栄さんは議員立法を通すことを重要視していましたが、ガソリン税を目的税にする議員立法は党派を超えて連携し、通しています。角栄さんは、実質的に自分が立案したけど立場上名前を載せなかったものも含めると110本もの議員立法に関わっている。道路整備を目的とした、いわゆる道路3法と呼ばれる法律や、貧困層に住宅を提供するための公営住宅法など、庶民の暮らしを良くしようとする法律が多かった」


残念ながら現実の国会では、「党派を超えた連携」どころか、コロナとは無関係の検察庁法改正案を巡って与野党が激しく対立。

最終的に安倍総理は採決を見送ったものの、「コロナショックで与野党の協力が必要な時に、政治的に対立するような法案を出してくること自体、角栄さんなら『今は休戦しなければならないのだから出すべきではない』と怒るのではないかと思います」(先の小田氏)

 

・徹底的に勉強


また、安倍総理は会見の度に“専門家の意見もうかがいながら……”と口にするなど、「専門家会議任せ」の姿勢も透けて見える。

「角栄さんなら、専門家会議任せには決してしないでしょうね」と、政治評論家の小林吉弥氏は言う。


「角栄さんは自分が理解できないことは徹底的に勉強する方でしたから。その上で専門的なことについては、医者や学者にデータを上げてもらい、それを厚労省に精査させて政治に生かす。専門家たちに対しては、『何かあれば自由に言ってくれ。責任は私が取る』と呼びかけたことでしょう」


角栄は「コンピューター付きブルドーザー」と評され、数字に非常に強かったことでも知られている。

自民党の石破茂元防衛大臣が言う。


「角栄先生なら、PCR検査で結果を判定するのにどれくらいの労力が必要か、臨床検査技師でなければ検査できないものなのか、検査機器が1台いくらするのか、誤判定する確率はどれくらいなのか……こういった点をデータに基づいて緻密に調べるよう指示されたことでしょう。どれくらいのスピードでやれば、どれくらいの検査数がいつまでにできるようになるのか、ということを数字で明らかにされただろうと思います」


一方、専門家会議が示した「新しい生活様式」については、「角栄さんなら、『生活様式なんてお上が指図するものじゃないだろう。日本人はそこまで間抜けじゃない』と怒ったのではないでしょうか。一歩間違えれば箸の上げ下ろしまで指図されるような窮屈な社会になりかねません」と、先の佐藤氏。


「こういう時こそ、選挙などなくても政治家は地元に帰り『何とか乗り切ろう』とみんなを元気づけてこい、角栄さんならそうおっしゃったんじゃないかな」


対策は専門家会議任せで、補償については場当たり的でスピード感もない。

これでは国民の支持など得られるはずもないが、「角栄さんなら安倍政権のような戦略なき政策ではなく、終息後のことまで見通した長期的な政策を打ち出すことは間違いない。新たな日本列島改造論ともいうような、日本再建のための20年計画を立てるのではないでしょうか」と、先の小林氏は言う。


「新型コロナの流行で、地方経済も疲弊している。25年後の2045年は全ての都道府県で高齢化率が30%を超えると予測されている年で、地方経済の衰退は深刻化しているでしょう。そこでこのコロナ禍を機に、角栄さんなら東京一極集中を改め、道州制の実現を目指すなど、地方の力を高めるような経済対策を取るのではないでしょうか」


無論、全ては「夢想」に過ぎない。

しかし、「角栄ならこうしたのではないか」という夢想の中に、事態打開のヒントが隠されているかもしれない。


週刊新潮 2020年6月4日号掲載

特集「コロナ禍に『田中角栄』だったらば」より

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「田中角栄」と「安倍晋三」を比べたら コロナ対応を“シミュレーション”
週刊新潮 2020年6月4日
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/06070600/?all=1

 

 

 

 

 

 

■なぜ田中角栄は全国民に愛されたか 田中角栄が残した偉大な3つの功績

・ここへ来ての「角栄ブーム」に日本人は何を求めているのか

ダイヤモンドオンライン 2016.5.6 鈴木貴博

https://diamond.jp/articles/-/90482

 

 

 

 

 

■官僚的なるものとの対決 「天才」角栄の魅力を描く

「西郷隆盛、乃木希典、田中角栄。戦後を代表する思想家、吉本隆明が日本の近代史を考えるうえで、最も重要な人物として挙げたのが、この3人だった」

毎日新聞 2016年4月5日 重里徹也・文芸評論家、聖徳大教授

https://mainichi.jp/premier/business/articles/20160403/biz/00m/010/001000c

 

 

 

 

■名もなき庶民が日本の主役だった「田中角栄の時代」があった

週刊ポスト 2015.06.30 山本皓一

https://www.news-postseven.com/archives/20150630_332539.html?DETAIL

 

 

 

 

■コロナ禍だから響く「田中角栄の7金言」元秘書が明かす

日刊ゲンダイ(講談社)2021/01/01

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/283358

 

 

 


■消費税撤廃、アジア版列島改造、そして格差是正……ニッポン経済復活へ、田中角栄ならこうする

週刊現代 2016.06.01

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/48754

 

 


【「決断と実行力」田中角栄は何がスゴかったのか?】田中角栄にあって現代のリーダーにないもの~田中角栄氏は傑出「リーダーの資質」~

2022-12-02 12:19:41 | 日記

 

 


■小長啓一氏が語る「田中角栄にあって現代のリーダーにないもの」

経済界 2016年7月11日

https://www.excite.co.jp/news/article/zuuonline_121573/


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戦後70年の節目として、2015年にNHKが「戦後を象徴する人物」に関してアンケート調査を行ったところ、全体の25%を占め断トツの1位だったのが田中角栄元首相だった。

第2位の吉田茂が13%、第3位の昭和天皇が8%、第4位のダグラス・マッカーサーと佐藤栄作が3%だったので、いかに田中氏が強烈な印象を残したかが分かる。

田中氏の首相在任期間がわずか2年半だったことを考えると、この評価の高さは尋常ではない。


独特のダミ声や演説のうまさから豪放磊落なイメージを持たれることもある田中氏だが、素顔は非常に繊細。

ワンマンではなく、常に周りの意見を吸い上げながら仕事をしていた。


金権政治の象徴とされ、一時は評価が地に落ちた同氏が今再び注目されているのは、現代社会が理想とするリーダー像にマッチする部分が多いからだろう。

そんな田中氏に通産大臣秘書官として1年、総理大臣秘書官として2年半仕え、あの『日本列島改造論』(日刊工業新聞社)の編集にも大きな役割を果たしたのが小長啓一氏。


同氏に、田中角栄のリーダーシップについて話を聞いた。 聞き手=吉田浩

 

小長啓一(こなが・けいいち)1930年生まれ、岡山県出身。53年岡山大学法文学部法学科卒業後、通商産業省(当時)入省。通産大臣秘書官、総理大臣秘書官として田中角栄氏に仕える。84年通商産業事務次官、91年アラビア石油社長、2003年同持ち株会社のAOCホールディングス社長。03~04年アラビア石油会長。04~08年AOCホールディングス相談役。07年弁護士登録し、現在島田法律事務所に所属。

 

・田中角栄流リーダーシップとは?~「やらなきゃいかん」と周囲に思わせる~

 

―― 田中氏と出会った時の印象は。


小長 通産省時代に大臣秘書官としてお会いしたのが最初で、その時の印象は、会った瞬間に後光が差すような感じでした。これはただ者ではないなと。前任の通産大臣は宮澤喜一さんでしたが、宮澤さんの秘書官からの引き継ぎではあまり参考にならないと直観的に思いました。それで、田中さんが前に大蔵大臣を務めた時の秘書官を訪ねて、どういう対応すれば良いのかと聞いたら「とにかく忙しい人だからついていくだけで大変だよと」とアドバイスを受けました。

 

―― 実際、仕えてみていかがでしたか。


小長 イメージ以上にスピーディーな人でしたね。目白の田中邸に朝7時半に行くと陳情客が20組くらい来ているのですが、就任して2、3日目のある朝行ったら「君、今朝の日刊工業新聞にこんなことが載っていたが、どういうことかね」と聞かれました。

当時私は日経新聞と朝日新聞しか読んでいなかったので、日刊工業の1面トップなんて知らない。答えられないと大変ですから、翌日から7紙を家で取るようになりました。渋谷の公務員住宅から車で目白に行くまでの30分の間に新聞を拾い読みして、答えられないようなテーマがあれば車内電話で担当局の局長や課長などに電話して予習していました。

朝6時に起きて7時半には陳情客に対応するというのを田中さんは徹底していました。陳情への対応は一組につき3分。スピーディーの極致ですね。

自分の選挙区がらみの陳情については、人の顔を見れば何を言いに来ているのかサッと分かるから、説明も受ける前から「あの件については……」と答えが出てしまう。それぐらい地元の事情については分かっていました。

 

―― 命じられたことができなかった時は、厳しく叱られたのですか。

 

小長 いえ、サッと終わりです。対応できていないこっちが悪いのだから、対応策を考えなければいけないと思わせる人でした。秘

書官に就任して1週間ぐらいたった時、「君は生まれはどこだ?」と聞かれて「岡山です」と答えたら、「岡山なら雪は川端康成のロマンの世界だな。しかし俺にとっては生活との闘いなんだ」とサラっとおっしゃった。私は秘書官になる前は立地指導課長を務めていて、工業を日本全体にどう配置するかを考え、地方事情についても勉強したので知識についてはそれなりに自信を持っていました。でも田中さんにそう言われて「国土開発についての年季が違う」と、思い知らされました。

田中さんのやってきた国土政策を徹底的に勉強しなきゃいかんなと。それで、都市政策大綱をあらためて読み直したり、それまでに田中さんが成立させた議員立法を読み直したりして、それがのちに『日本列島改造論』の作業につながるわけです。考えてみると田中さんは人の使い方がうまい。雪にかこつけて、「君は俺に比べると勉強が足りないよ」と、暗に伝えていたんです。言われたほうは、やらなきゃいかんと思ってしまう。

 

・日本列島改造論 ベストセラーになった『日本列島改造論』~「上からではなく同志として付き合う」~

 

―― 田中氏に関する資料などを読むと、小長さんに限らず周りが自発的に動くケースが非常に多い印象です。権威で人を動かすタイプではなかったようですね。


小長 徹底的に怒られた人はいないのではないでしょうか。偉くなっても稲穂が垂れるがごとく、常に下から目線で対応したのもすごいことです。周りの人が動いたのは角栄さんだからというのはあるでしょうね。

 

―― なぜ、そこまで人望が厚かったのでしょうか。


小長 1年生議員から政調会長になるまでの10年間の下積みの時代に、議員立法を25本以上成立させて、それもすべてご自分が主答弁者でした。法案作成から答弁まですべて議員自身がやらなくてはならないので、役人と同じレベルの知識が必要です。

その過程で、役人が法案を作るときどこで苦労しているのか、どこがツボであるのかを全部把握していました。そこが、ほかの政治家とは全然違います。法案を作る過程で、各省の若い連中と仲良くなっていき、総理大臣になるころには彼らが各省の局長になっていました。だから役人と電話1本、ツーカーで話せたんです。総理が指示するという感じではなく、昔の同志として話ができたんですね。

 

―― 将来総理になることを目標に、人付き合いをしていたわけではないんですよね。


小長 そうですね。72年に列島改造論を出す時も、田中さんの1日数時間、4日にわたるレクチャーをベースに当初は1年がかりでとりまとめる予定でしたが、その後の総裁選を意識した感じではなかった。

ところが二階堂進さんが私のところにやってこられて、総裁選がある7月に間に合うよう日程を繰り上げてくれないかと言われたんです。結果的にはそれが総理就任のマニュフェストになったわけです。

 

・田中角栄氏が優れたリーダーだった3つの理由~現代人が懐かしむ現場感覚と1億総中流の思想~

 

―― 田中氏はどんなことでも理由を3つに限定して説明するよう、周りに指示していたと言われます。それに倣って、田中氏が優れたリーダーであった理由を3つに限定するとすれば。


小長 ひとつは国土維新の志です。明治100年に当たる昭和47年は国土維新によって、東京への「ヒト、モノ、カネ」の流れを地方に逆流させる、そのために、全国を1日行動圏にしないといけないと強調していました。列島改造の原点ですね。

2つ目は「籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」と田中さんはよく言っていましたが、チームワークや人間関係を大事にすること。吉田茂さん、池田勇人さん、佐藤栄作さんと歴代首相を担ぐ中で学んだのだと思います。

3つ目は、徹底的な敵を作らないこと。人をほめるのは皆の前で、叱るのは1対1でというのを実践し、議論する時も相手を最後まで追い詰めずにその手前で止めていました。味方は1人でも多く、敵は1人でも少なくということですね。

 

―― 田中角栄にあって今の政治リーダーにない部分を挙げるとすれば。


小長 現場感覚がどれだけあるか、ではないでしょうか。先ほど申し上げた朝の陳情や夜の業界人との会合などを通じて、アンテナを広く高く張ってそれを政策に生かすという姿勢。それを、今の政治家がどこまでできているかは疑問です。

今は4人に1人が世襲議員で、それ自体は悪いことではないのですが、選挙区は地元でも東京生活が長い議員が多い。選挙区の細かい実態について、肌身で知る機会が少ないのではないでしょうか。加えて、選挙区が人口比で決まるため、地方はますます代表者が減っていきます。地方の意見がより反映されるシステムが、日本にはなくなりつつある気がします。地方についてもう少し重視しないと、国土の均衡ある発展にはつながらないと思います。

 

―― 一時は地方への利益誘導政治が批判されましたが、ここにきて地方活性化がうたわれ、昔の良い部分が見直されている印象です。


小長 列島改造論の根底には、一億総中流の思想がありました。最近の新自由主義の流れの中で、中産階級の間で格差が広がり、それが米国のトランプ現象にも表れています。日本にもそういう傾向が出てきたため、一億総中流を目指した田中さんへの郷愁があるのでしょう。

田中さんが総理大臣になった時の、全国的な盛り上がりはすごかった。総理になってすぐ、当時の経済企画庁長官に列島改造審議会を作ろうと命じて、具体的にどこから手を付けるのかを議論しようと提案したところ、全国から自薦他薦を含めて参加希望者が150人も集まったんです。あのものすごい期待度は、今の地方創生には見られません。

 

・企業経営者が田中角栄氏から参考にすべき点とは


―― 企業経営者にも、田中角栄のリーダーシップは参考になりそうですね。


小長 田中さんがいつも言っていた「仕事は人に任せ、責任は自分が取る」ということが重要だと思います。

社長になってから何をしようか考えるのでは遅い。田中さんは総理になる前から、なったら何をするかを考えてきました。中国との国交正常化も、総理に就任してすぐに行いました。その時、ひそかに私に言ったのは「今太閤ともてはやされ、権力絶頂の時にこそ、一番難しい問題に挑戦しなきゃいかん」と。そして、「中国の周恩来や毛沢東などの革命第一世代が目の黒いうちにやらないとダメだ」と。

2代目以降はどっちを向いているか分からないから、というのが理由です。


―― そういう姿を見て、さらに周囲からの支持が集まるということなんでしょうね。


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小長啓一氏が語る「田中角栄にあって現代のリーダーにないもの」
経済界 2016年7月11日
https://www.excite.co.jp/news/article/zuuonline_121573/

 

 

 

 

 

■田中角栄氏は「リーダーの資質」傑出 弁護士、元通産事務次官・小長啓一氏

産経新聞 2017/10/17

https://www.sankei.com/article/20171017-VRWGE37Z7FMLLIMERUGAYFCRUU/


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田中角栄氏との出会いは昭和46年7月。

第3次佐藤改造内閣で田中氏が通商産業相(現在の経済産業相)となり、私は秘書官として仕えることになった。


田中氏は蔵相(財務相)を経験し、在任時の秘書官の「とにかく忙しい人。ついて行くだけで大変」という言葉が印象的だった。


昨年、反田中の急先鋒(きゅうせんぽう)だった石原慎太郎氏が『天才』を出版し、田中氏をべた褒めされた。

作家として田中氏ほど大きなインパクトとインフラストラクチャーを残した政治家はいない、その偉大な足跡を書き残さねばならないと評価したのだと納得した。

田中氏は人間力、構想力、決断力、実行力といったリーダーに求められる資質で傑出していた。


構想力として田中氏には財源を生み出す知恵があった。

戦前は国や軍の意思を地方に伝えるための道路を、田中氏はモノを運び、ヒトが動くための生活の手段と捉え、道路特定財源制度を実質的に議員立法で27年に創設した。


47年7月に首相になると大きな反対の中、9月に訪中して5日間の交渉で日中国交正常化を果たして大きな決断力を示している。

「一番難しい問題に挑戦しなくてはならない。それが政治家としての宿命」だと語り、「毛沢東、周恩来という革命第一世代の目が黒いうちに問題を片づけるのが時代の要請」と機会を逃さなかった。


実行力、交渉力、説得力については郵政相(総務相)在任中、テレビ局40社以上に一斉に免許を与えて全国各戸にテレビがある時代へとつなげた。

蔵相時代の40年、証券会社に前例のない無担保の日銀特融を行って金融不安を回避。学生運動最盛期の44年には参院議長のところに押しかけ、継続審議で引き延ばそうとしたのをやめさせて採択に持ち込んで、問題を一気に沈静化させた。

通産相としては大平正芳、宮沢喜一両氏の2代にわたって解決できなかった日米繊維交渉を4千億円の通産省予算に対し、繊維業界に2千億円もの支援を行うことで決着させた。

48年の第1次石油危機では2カ月で2つの法律を制定し、資源外交で安定供給を取り付けた。

翌年には電源3法を制定して脱石油依存の道筋をつけるなどの措置を次々と繰り出し、極めて強いリーダーシップを発揮した。


最大の魅力である人間力は、母親の背中を見つめ、アルバイトを積み重ね、下積みの苦労を自ら行って、失敗から成功を勝ち取る道筋を手探りして得たもので、人間学博士だった。

下からの目線で人と接し、親分肌で人情家。就職、結婚などの世話をいとわず、手柄は先方に与え、泥を自分でかぶる利他の心をモットーとした。

縁を大切にし、必ず礼を通す姿勢を貫いていた。

 

【プロフィル】小長啓一 こなが・けいいち 昭和5年、岡山県生まれ。旧制第六高等学校を経て岡山大学卒業。28年、通商産業省(現在の経済産業省)に入省。46年に田中角栄通産相秘書官となり、「日本列島改造論」の作成に参画。田中首相秘書官、経済政策局長などを歴任し、59年から61年まで事務次官を務めた。退官後はアラビア石油に入社し、平成3年に社長に就任。19年に弁護士登録。島田法律事務所所属。


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田中角栄氏は「リーダーの資質」傑出 弁護士、元通産事務次官・小長啓一氏
産経新聞 2017/10/17
https://www.sankei.com/article/20171017-VRWGE37Z7FMLLIMERUGAYFCRUU/

 

 

 

 

 


■「田中角栄」は何がスゴかったのか?

最もよく知る男が語る「決断と実行力」

東洋経済新報社 2016/11/04

https://toyokeizai.net/articles/-/141468


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・「俺は十年後、天下を取る」


私があの人(田中角栄)のところへ弟子入りしたのは、新聞記者をしていた32歳のときでした。

昭和37(1962)年12月10日に大蔵大臣秘書官事務取扱という辞令をもらったんです。


実はその前の12月2日、大蔵大臣室に呼ばれまして、そのときに、オヤジさんが私に言った。

「俺は十年後、天下を取る」


いきなりです。

正直に言って、「頭がおかしくなったんじゃないか」と思いました。


その年の7月、44歳の若さで池田勇人(はやと)首相に大蔵大臣という大役に抜てきされたばかりでしたから……。

それなのにもう今度は天下取りか、と思ってじっと顔を見た。


それでも本人はまじめな顔をして、気負った様子がありません。

「お互いに一生は1回だ。天下取り、これだけの大仕事がほかにあるかい」

と言うので、「ありません」と答えました。


「ならば一緒にやろうじゃないか。片棒を担げ。お前が学生時代、共産党だったことは知っている。公安調査庁から書類を取り寄せて目を通した。よくもまあ、アホなことばかりやった。若かったからね。あの頃の若い連中は腹も減っていたし、血の気が多いのは、あらかたあっちへ走った。それは構わない。そのぐらい元気があったほうがいい。ただ、馬鹿とハサミは使いようだ。俺はお前を使いこなすことができるよ、どうだい、一緒にやらないか」と、にんまり笑いました。


私は、「一晩、考えさせてほしい」と答えた。

そして、下宿でまんじりともせず考えた。


自民党が金権と腐敗の温床である現実はわかっている。

だけど、社会党は天下を取る気がまったくない。


日中――日本と中国が仲良くしなきゃならない。

これは私の若いときからの夢でした。


田中ならばできる。

彼の決断力と実行力、情熱と闘争心はほかに例がない。


自民党でドロまみれになるけど、日中問題を解決できるなら男子の本懐だ。

そう結論を出して、私は翌日、弟子入りしました。

 

・命を賭けて成し遂げた日中国交回復


田中角栄と言えば、多くの皆さんに「日中」というのがすぐ出てくるわけですが、私が今でもよく覚えているのは、あの人が天下を取った昭和47(1972)年7月5日の光景です。

福田赳夫さんに自民党の総裁選挙で競り勝ったあと、総理官邸2階の天井が低い執務室で、あの人は、私に言った。


「日中を一気にやる。鉄は熱いうちに打て。俺も今が一番力の強いときだ。厄介な問題は力が強いときに一気にやらなきゃ駄目だ。先延ばしをして力がへたってからやろう、なんて考えてもできるはずがない。それに俺は毛沢東、周恩来という男たちを信用している。連中は共産党だ。だけど、死線を何十回も超えてきた。修羅場を何百回もくぐり抜けてきている。そうした“叩き上げ創業者オーナー”というのは、大事を決するときに信用できる。今は何をしなきゃならんか、自分が何を譲って、相手から何を取るか、それをよく知っている。おそらく毛沢東や周恩来は俺に、『台湾とだけは手を切ってくれ。日米安保条約はそのままでいい。我慢ならないことだけれども、賠償に目をつぶってもいい』。この線で必ず来る。今がチャンスだ。俺は一気にやる。秋口までに片づける」


そう言いました。

私は体がふるえたことを今でも覚えています。


あのとき、自民党内は八割が台湾派であった。

岸信介さんを総大将にして弟の佐藤栄作さん、それに石井光次郎さんや賀屋興宣(かや おきのり)さん、灘尾弘吉(なだお ひろきち)さんというそうそうたる大立者がデンと控えていました。


これを中央突破して、党議決定に持ち込むのは至難の業だ。

ならば、政府声明でやる。


「腹の中に銃弾百発もぶち込まれる覚悟がなければ、政治のトップなんていう仕事はできない」

こう笑って、あの人は一気にやりました。

 

・「あのくそじじい、ぶっ飛ばしてやる」


大学管理運営法という法律があります。

昭和44(1969)年の1月10日、東大の安田講堂が元気のいい全共闘に占拠されて、全国の大学に紛争の火の手が走り、大混乱になりました。


大学の先生たちは失礼だけど、臭いものにふたで、一本気な若者たちと正面から向かい合い、大学の管理システム改善の議論をする当事者能力がなかった。

オロオロするばかりです。


東大の入試が延期、つまり、実施不可能になった。

ほかの大学にも連鎖反応する状況になった。


子供たちは勉強できず、卒業もできない。

この頃、田中はちょうど自民党幹事長の職にありました。


後に衆議院議長となった仲良しの坂田道太(みちた)さんが文部大臣をやっていた。

その坂田さんの大親友が東大学長の加藤一郎さんです。


この三人が密接な連携プレーをとって、大学の大火事を消すための法律をつくった。

私も随分、使い走りをやらされました。


やっと法案ができて、衆議院に提出され、何とか可決に持ち込みました。

ところが、法案は、参議院に送られたのはいいけれど、ガチャンと留め金をかけられて動かない。


日教組出身の社会党の連中が「大学自治の侵害だ」といきり立っている。

本当は総理大臣の佐藤栄作さんが、「社会党もワアワア反対しているし、新聞の論調もあまり賛成する気配でもない。急ぐことはないんじゃないか」と考えて、それが審議停滞の根っこにありました。


当時の参議院議長は重宗(しげむね)雄三さんという名物議長で、80歳を過ぎても元気一杯なじいさんです。

佐藤総理とは肝胆(かんたん)相照らすというか、ツーカーの間柄で、とても仲良しでした。


この大将がなかなか腰を上げない。

同じ昭和44(1969)年の7月27日でしょうか、会期末が目と鼻の先に迫り、時間切れで大学管理運営法案が廃案になりそうでした。


角栄さんが衆議院の自民党幹事長室で、「あのくそじじい、ぶっ飛ばしてやる」と大声を出し、いきなり立ち上がって、参議院議長室に走り出した。


そうしたら筆頭副幹事長の二階堂進さんがあとに続いた。

あの人も気性が真っすぐで血の気が多い薩摩隼人です。


私はびっくりして2人を追って走り出した。

3人でぜいぜい息せき切って議長室へ飛び込みました。


重宗さんが呆気にとられて、「角さん、どうした。血相変えて……」。

そうしたら、角栄さんが一気にまくし立てました。


「おい、じいさん、お前さんは子供も孫も全部でき上がって、世の中に出てるからいいけど、自分の食うものもへずって、子供を学校に出して、カネを送っている親たちは、この先みんな大学がどうなるか、真っ青になっているぞ。講義を聞いて、進級し、卒業したい子供たちも今の騒ぎで大学に行けなくて困っているぞ。今すぐ本会議を開くベルを鳴らせ」


ところが重宗さんも負けていません。

「おい角さん、お前は意気がってそんなこと言って、たんかを切っているけど、おやじ(佐藤首相)はお前さんと違うぞ。そんなにしゃかりきになって、ぽっぽと頭から湯気なんて出していねえよ。考え違いするな」


そうしたら田中がまた、怒り出しましてね。

「それは総理もお前さんも同じ極楽トンボだからだ。いいから、とにかくベルを鳴らせ。時間がないんだ。四の五のぬかすと、じじい、この窓から下に叩き落すぞ」


さすがに重宗さんも、「まあ、そうがんがん言うな」と田中をなだめ、官房長官の保利(ほり)茂さんに電話しました。

「角さんがカッカカッカしてお手上げだ。しょうがないからベルを鳴らす」


法案が成立して、大学に静けさが戻りました。

そして二度と再び大学にああいう反乱の大火事が起こることはなくなった。

それが今に続いています。


この年(昭和44年)の暮れ、12月27日に衆議院総選挙がありました。

世間、とくにマスコミは、「沖縄返還選挙」と名づけて、自民党は300議席を得て大勝しました。


勝った理由は「沖縄だ」というのが大方の論評だったけど、私は腹の中で、「それは違うんじゃないか。本当は大学管理運営法が成立して、大学が静かになった。本来の勉強するキャンパスに戻って、日本じゅうの親たちがホッとした。子供の通う大学を静かにしてくれて、佐藤さん、本当にありがとう。こうした有権者の思いが政権の信任につながった」と考えていました。

今でもそう思っています。


大学紛争当時の田中幹事長の決断の速さというか、それに判断は見事でした。

私は自分の仕えた親方ですけど、本当のところ、今でも感心しています。

 

・“角栄学校”の生徒たちに伝授した選挙必勝法


田中角栄さんは自民党の内外で“選挙の神様”と言われた人です。

議会制デモクラシーでは選挙に勝たなければ与党になれない。


真実の世論は各級選挙の結果しかありません。


昭和44(1969)年の春、何日だったか忘れましたけど、小沢一郎さんが初めて田中幹事長の前に立ったことがあります。

彼はもともと弁護士になりたかった。


岩手県出身の代議士だったお父さんの佐重喜(さえき)さんは岸元総理の盟友でしたけど、この方が急に亡くなって、結局、長男の一郎さんが、不本意ながら二世政治家の道を歩む結果になった。

そして、お母さんの勧めがあり、田中のところへ来たわけです。


まだ26、7の青年で、かわいい顔をしていた。

今のような憎たらしい顔ではなかった(笑)。


そのときに、田中が小沢一郎さんに言ったことは、「一郎君、親の七光りを当てにするな、カネは使えばなくなる。戸別訪問三万軒、辻説法(つじせっぽう)5万回をやれ。それをやり抜いて、初めて当選の可能性が生まれる。やり終えたら改めて俺のところへ来なさい」ということでした。


あの人は「弟子入りしたい」という若い政治家の卵には誰に対しても判子で押したように、こう言いました。角栄さんが亡くなって、私は改めて当時の精悍(せいかん)な親方と、若かった小沢さんの顔をだぶらせて、懐かしく思い出しています。


それと世間の人はあまり知らないようですが、角栄さんは戦後日本が生んだ“議会政治の申し子”でした。

人民の海から生まれた政治家だった。


衆議院、議会というところは、議員さんたちが集まって、選挙民、つまり国民から「あれをやってくれ」「これやってほしい」と言われたことを自分たちが責任を持って議論して、法律にまとめあげ、実施するのが本来の役目です。


だから、立法府と呼ばれる。

ところが今、国会に提出される法案の9割9分は霞が関の秀才たちが用意しています。


私の親方は違った。政治家として73の議員立法を手がけました。

あの人は昭和22年4月、新憲法下第一回の総選挙で当選したんですが、39歳で郵政大臣になるまで無名時代の十年間に議員立法を22もつくった。


焼け跡の日本を再建、復興させ、田舎の人たちの暮らしもよくしなければならない。

これにまっしぐらに進んだ。

この時代にガソリン税を創設して、今の道路網の財源にしました。


今の政治家の皆さんは、役人におんぶに抱っこが目立ち、鼻先であしらわれて、本当は馬鹿にされている。

目線が現行法体系を越えられず、あと追い投資に終始する役人に使われるのではなく、角栄さんの実績に学び、議員立法に目を向けてほしい、としみじみ思っています。


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■「田中角栄」は何がスゴかったのか?最もよく知る男が語る「決断と実行力」
東洋経済新報社 2016/11/04
https://toyokeizai.net/articles/-/141468

 

 

 

 

 

 


■なぜ田中角栄は全国民に愛されたか 田中角栄が残した偉大な3つの功績

・ここへ来ての「角栄ブーム」に日本人は何を求めているのか

ダイヤモンドオンライン 2016.5.6 鈴木貴博

https://diamond.jp/articles/-/90482

 

 

 

 

 

■官僚的なるものとの対決 「天才」角栄の魅力を描く

「西郷隆盛、乃木希典、田中角栄。戦後を代表する思想家、吉本隆明が日本の近代史を考えるうえで、最も重要な人物として挙げたのが、この3人だった」

毎日新聞 2016年4月5日 重里徹也・文芸評論家、聖徳大教授

https://mainichi.jp/premier/business/articles/20160403/biz/00m/010/001000c

 

 

 

 

■名もなき庶民が日本の主役だった「田中角栄の時代」があった

週刊ポスト 2015.06.30 山本皓一

https://www.news-postseven.com/archives/20150630_332539.html?DETAIL

 

 

 

 

■コロナ禍だから響く「田中角栄の7金言」元秘書が明かす

日刊ゲンダイ(講談社)2021/01/01

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/283358

 

 

 


■消費税撤廃、アジア版列島改造、そして格差是正……ニッポン経済復活へ、田中角栄ならこうする

週刊現代 2016.06.01

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/48754