遺骨や分骨した骨にばかり執着しないで、茶子は私の心の中で生き生きと生きている、、そんな風に思おうと意識し始めた。
茶子を看取って、失って、改めて横田ご住職の著書を読み返して、そのようなヒントが書いてあった。
自分の頭の中にある知識、考え方、経験してきたことだけで考えるから、グルグル堂々巡りをして苦しくなる。
なんとか「これが私と茶子の着地点」と思える拠り所を探してる。
物理的にじゃなく、精神面でも何かに依存するという意味ではなくて。
私の中で、こういう考え・思いで生きて行こう、と思える、心の在り方、とでも言うか。
苦しい辛い淋しいから、どーしたって一生懸命、考えちゃうのよ。
だったらさ、どーせ、すんっっごく!考えるなら、横田さんのような様々な経験をし、様々なペットと家族も見て、出家なさったお坊さまのエッセンスを、ほんの一滴二滴、頭の中に入れると、途端にヒントになったり、答えに辿り着けそうな希望が見えたりするわけなのよ。
それが。
遺骨=茶子!となって、執着して辛くなってたけど、茶子は遺骨に宿ってるわけではない魂は私の心の中で私と共に生きてる、に変化したわけだ。
これには救われた。
四十九日までに遺骨を何某かの形で手元から離そう、と、少しだけ思えるキッカケにもなった。
まだ側に置いておきたいけど、そう少しだけでも思えるキッカケが心の中に芽生えたのは、私にとっては大きな変化だった。
Kindle版で購入したのが先月かな。
読むたびに、その時の自分の置かれた状況や心情で、目がいく部分、感じることが違う。
介護に夢中だった時は目がいかなかったペットロスの部分に、ペットをロスした今は救われてる。