学校における「体罰」について-3

4.刑法上の「暴力」は「傷害」と「暴行」に関連する。傷害罪は「人の身体を傷害」した場合をいい、「傷害するに至らなかった」場合を「暴行」という。学校でいう体罰は、暴行そのものであり、鼻血を出すなどのケガがあった場合はリッパな傷害罪である。そういう「暴行」「傷害」に相当する体罰が教育の現場でどうして「懲戒」の変形として微妙な扱いをうけるのか分からない。どうして体罰は「ある程度必要」なのか。
 
5.例えば「懲戒」が必要と考える場合、教師は問題の生徒(人間性を否定する、他人に暴行等を加えるなどのいじめを行う、意図的に周囲を攪乱する、など)に対して顔色を変えてでも厳しく叱ることができればいいのではないか。その時、非常に強い語調で叱る、時には自分の気持ちを抑えることができない怒りをその生徒に対して向ける(怒鳴り付ける)、などがあったとしても「有形力の行使」(実力行使)の体罰ではないだろう。
 
6.体罰という暴力行為で処分される教師が年間360件にのぼる(http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2011/12/22/1314343_04.pdf
 現実には学校現場で行われる「体罰」という名の暴力行為はもっと多いのではないかと思われる。なぜなら、学校での体罰には明白な加害者と被害者が浮かび上がらないケースが多いからである。述べたように、「ある程度必要」と認める大人(親も含めて)が少なくないし、教育行政と学校側も、「隠したい」から。
「愛の鞭」意識を持つ者はたとえ被害者的立場であれ、加害者的な立場の人であれ、体罰を受けた(つまり被害を受けた)とか加えたとかの認識にはならない。こういう状況が、残念ながら日本にはまだまだ多い。
私たちは教育の現場から、「体罰」を一掃すべきである。懲戒という語句そのものも必要ないだろう。子どもへの注意とか叱正でいい。体罰を行う教師は弱いとか力量不足だとか、その動機をいろいろ忖度されるが、動機理由を分析する必要もないだろう。

7.体罰を受けた生徒は登校拒否すべきである。今、フリースクールを求める子どもの中に学校の先生からの体罰が耐えられなかったというケースがある。これを避けるために登校拒否するなどあり得ることだ。
私たちは「不登校の子どもたちは今日の教育と学校の問題の告発者」と言ってきた。教師の体罰または友人からのいじめなど、子どもたちは自分の人格を否定することに対して闘う意味をもって登校拒否(不登校)をする。当然である。

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