「青い目の人形」のこと(NO4)

このテーマについての記述について幾人かの人たちから興味・共感があったので…。

日本に着いたのは、記したように1927(昭和2)年2月だが、この直前の12月25日に大正天皇が亡くなった。そのために盛大な人形歓迎会(帝国劇場で開催予定だったという)については縮小された(3月3日に日本青年館に変更されたがアメリカ大使や宮家の令嬢、日米の子どもたちの参加で行われた)。日本の少女たちは「正装」して参加したとのこと。

和寒にも3体の人形が贈られたことは記したが、当時三和小学校に在籍していた私の母などは駅までこれを迎えに行った。(しかしある人の話では、「勉強のできない子」はこのお迎えからはずされたという)。三和から和寒の駅まで約4キロ、昔の距離で一里。みんなで歩くのもタイヘンだったろうに。

日本で、各地で「歓迎集会」が行われ、またアメリカへの答礼人形の計画が実施されていく。

しかしこの「人形外交」をにがにがしく思った日本人もいた。「アメリカという偽善の国から送られた人形にバカ騒ぎをする」とか「子どもたちに心に外国崇拝の念を植え付ける」「わが日本の子どもたちを駆って米国人の前に頭を垂れ尾を振るが如き卑劣な根性を養成する…」といった論調が高まる。

そして前回記したように対米開戦の状況が高まるにつれ「青い目の人形」は「敵性人形」として壊されていった。
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