南九州旅行から中・大同窓会まで

ブログを失礼していました。この間、職場の同僚とともに、南九州への研修旅行、中学校と大学の同窓会などに参加してきました。

南九州は、戦国時代、日本がヨーロッパと初めてふれあうきっかけをつくった場所でした。ポルトガル人が種子島に漂着して鉄砲を伝え、ザビエルがやってきてキリスト教を伝えました。これらは、戦国の日本で大きな動きを創り出し要因になったことは誰もが言っていることです。つまり、この二つを最大限に活用した織田信長が戦国をまとめる第一人者となり、次の秀吉、家康へと統一事業が受け継がれていきました。

徳川家康によってつくられた江戸時代という日本の封建体勢は230年ほど経った頃からガタガタし始めます。この動きの中で江戸幕藩体制を崩壊に導くリーダーたちを輩出したのが鹿児島県でした。当時は薩摩藩だったのですが、この地からデビューしたヒーローたちは山口(長州藩)出身者たちと共に倒幕の勢力になっていきました。
南九州旅行で、そういった歴史的な意味を味わう機会になりました。

この半月間で、中学校と大学の同窓会があり久しぶりに参加しました。中学校は「傘寿を祝う」同期会でした。60数年前誰もが紅顔の美少年であり、みどりの黒髪の美少女たちばかりであったことはいうまでもありません。
幹事諸氏の努力を多としながらつくってくれた資料を少々紹介しておきましょう。
私たちが中学校を卒業したのは、昭和28(1953)年でした。当時の同期の中学生は217名(ちなみは今は和寒中学校の3年生は40名弱)でした。この中で1泊の同期会に参加した旧友たちは35名です。すでに鬼籍にある旧友は51名にのぼっています。「もう会うことはできないかも」という気持ちで参加した人が多かったのかも知れません。

妙に記憶に残っている語で(自虐的ですが)、「老いるとは増える薬に減る記憶」という誰かが詠んだ川柳を引用して語っていた元友人の話。

今日29日は大学の同窓会でした。すでに「恩師」はいません。私が在籍していた教育学部は20人もいたでしょうか。法文経を会わせた文系の合同同窓会も引き続きありました。知っている人はほとんど来ていなかった感です。

札幌市長は法学部卒で、短い時間挨拶を交わしたのですが、「参加した証拠」を残して退席しました。

心に残るいつくかをメモした次第です。
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