「おくのほそ道」7(番外編。モンゴルの英雄ジンギスカンは義経だった!)

平泉での義経主従の最期に関する記憶が、芭蕉の「ほそ道」の旅のいわば頂点(山本健吉氏)の内容になっていると指摘される。これに関連して私的な感想などを。

日本史上の「有名人」で、もしフアン投票などをやったら、源義経はトップの位置にランクされるのではないだろうか。人気を得る一つは彼(女)がある種の悲劇的な運命におかれていたことと関係があるだろう。聖徳太子しかり(人徳者の太子の子どもたちが蘇我氏に殺された!)、貧しい身分から天下人になった豊臣秀吉も息子の代で徳川家康に消されてしまった、他に楠木正成とか西郷隆盛などが思い出される。他に大坂の陣で息子秀頼とともに死んだ母の淀君など。

義経も、兄(源頼朝)のために必死になって闘ったが、最期は殺されてしまった。この悲劇はなんとかないことにしたい、という後世の日本人は、「衣川で義経は死んではいない。ここから東北へ逃げた」ことにした。そして苦労して北の別世界である蝦夷地へ行くことにした。
北海道の各地に残る義経伝説は、在りし日の義経の活躍した痕跡だ、とされる。

義経には静(しずか)という愛人がいた。正式の妻ではなかったようだ。彼女は義経と別れたときに身ごもっていたと言うが、生まれたのが男の子だったからすぐ殺されてしまった。そして彼女もその後詳しくは分からない。

さらに蝦夷地で活躍しかかっていた義経はさらに広い大地で活躍をさせたいという日本人は、遂に彼をモンゴルにまで送ってしまった。そしてご存じモンゴルの英雄ジンギスカンとして再デビューするのだ。
一時、日本の「学者」などからも、ジンギスカンは義経だった、という「説」が称えられたことがあった。
高木彬光という作家が「成吉思汗の秘密」という小説を出した。1960年ごろの刊だったが、私はこれに魅せられ興奮した記憶がある。

シンギスカンは漢字では「成吉思汗」と書く。この文字を考えてみよう。「吉なりて汗を思う」。吉とは自分の大望、モンゴルの帝王の地位だ。この地位についたとき思い出すのはあの水干をまとっていた彼女(静御前)だ。そういう意味をこの4漢字は意味していると解釈される。
そして成吉思汗が死ぬとき「われは故山に帰りたし」と言ったという。この故山は日本の陸奥だったのではないか。
さらに高木氏は成吉思汗は九を好んだ。九郎義経と関係がある、という。さらにこの孫の時代、モンゴルは日本を攻めた(元寇)。それは祖父の故国を支配したかったからだ、などそれらしい根拠をあげて記されていたので「これはひょっとしたら?」という思いをもったことがあった。もう半世紀以上前のことだ。

「おくのほそ道」に魅せられて、思い出した番外編です。ちなみに義経の生まれた年は1159年(衣川の死は1189年)。ジンギスカンは1162~1227年。
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