だけでなく、
現在は、かなり大きな声でも聞こえない。
ささやきが聞こえないのは、若いころからだった。
だからロマンスに程遠いところがあった。
恋を語り合うのに、ふつうは大声は出さないでしょう。
夫はお見合いしたとき、私の難聴に気づいたらしい。
が、結婚してくれた。
結婚して今年4月で丸47年になったが、
夫には、長い期間、苦労させたことになる。
これから先もまだ・・・。
結婚前は、夫以外にも、愛の告白をしてくれる人はいた。
が、聞こえなかった。
たいがい小さな声でぼそっと言うから。
が、そのときの相手の様子で、そういう類のことを言われたのだと察した。
が、十分に聞こえていないから、返事のしようがなかった。
聞き返すのは野暮だからしなかったし。
それで逃したロマンスもいくつかあった、と思っている。
哀しかったけれども仕方なかった。
聞こえなくてつらかったことは無限にあったが、
この「恋のささやき」が聞こえなかったことは大きな悲しみだった。
若いころは、一応難聴ということは伏せていた。
分かる人にはわかっていたと思うけれども、
そういうふうに仕向けられていた。
そう仕向けたのは母ということになるが、
母もはっきりそう仕向けたわけではなかった。
が、
母が私の難聴を隠そうとしていたことを察知していたから、
私は自分から難聴のことをカミングアウトしないようにしていた。
私がそんなふうだったから、
周囲の人も気づかないふりをしてくれていたかもしれないと今になれば思う。
まあまだ軽い難聴であったから、そういうこともできたが、
障碍者手帳がもらえるほどの聴力になってからは、ごまかすことは不可能になった。
それで私は返って気が楽になった。
現在のように大声を出してもらわないと聞こえない難聴も、それなりに辛いが、
しかし、ごまかせる程度の難聴のときも、それなりに辛かった。
なぜなら健聴者を装わなければならなかったから。
私達が若いころは難聴者に対する偏見が強かったから、
母は隠そうとしたのだろうが、
そのことで私が二重に辛い思いをしたことは確かだった。
とにかく私が中学2年のときに判明した難聴は両親を悲しませた。
たぶん本人の私より両親のショックのほうが大きかったと思う。
それでも悲しんでくれる両親、祖父母がいたころは、
難聴の悲しみは私一人のものではなかったが、
現在は夫がいて子供たちがいても、
難聴の悲しみを背負うのは私一人になったと感じることは多い。
*
☆難聴の悲しみ父母と祖父母とも共有できしころが懐かし
☆難聴のわれよりわれを産みし父母ふかく悲しみゐしころありき
☆わが若き頃いかほどの心配をしてくれしかな父母と祖父母は
☆難聴の子のわたくしを心配し働き続けし母かもしれず