かみなり

心臓に人工弁を、耳に補聴器をしている昭和23年生まれの団塊世代です。趣味は短歌です。日々のよしなしごとを綴っていきます。

女には三界に家無し

2019-05-10 13:32:48 | ブログ記事
突然怒り出す夫。

ホウレンソウのバター炒めは夫の好物である。
だから、お昼、それを作りましょうかと聞いただけで、突然夫は怒りだした。

夫は、野菜ばかりでなく、肉が食いたいと。

もちろん肉か魚をメーンのおかずにしますが、
私にすれば、夫を喜ばせようと、
「好物のホウレンソウのバター炒めもしましょうか?」と聞いただけである。

それなのに・・・。(涙)

もう怒鳴られると涙が出てくる。

夫はそう思っていないだろうが、私は、私なりに夫に合わせて生活している。

何もしていないように見えるかもしれないが、
毎日の献立を考えて、作って出して、食事が終われば洗い物をする。

その繰り返しである。

私なりに夫に尽くしているつもりなのに、怒鳴られると情けなくて涙が出てくる。

怒鳴られたあとは、もう顔を合わすのも嫌だ。

このまま出奔したい。

母や兄が生きていれば、実家に帰れるのだが、実家も帰る場所でなくなった。

こういうときはどこへ逃げたらいいのだろう?

「女には三界に家無し」とはよく言ったものだと思う。

結婚するまでは親の言うことを聞き、
結婚すれば夫の言うことを聞き、
これから年老いていけば、子の言うことを聞かねばならないのだろう。

まあ生活力のある女性はいいが、
私のように難聴で身体も丈夫でなければ、死ぬまで我慢するしかない?

*

☆ホウレンソウ炒めませうかと聞くわれに肉食はせろと怒鳴るは夫

☆ホウレンソウだけを出すにはあらざるになにゆゑかくも怒るや君は

☆気を使ひ心を使ひゐる妻を怒鳴るな夫あるじであれど

☆わが死なばわれの気遣ひ気づくらむならば死なむか当てつけのため

☆腹いせを妻にぶつけて気を晴らす人なら去らむさよならさらば

滋賀県大津の事故に思う

2019-05-10 09:13:12 | ブログ記事
事故に遭った2歳児とそのご両親、ならびに祖父母さんの悲しみはいかばかりかと
わがことのように胸ふさがれながら、
一方では、事故を起こした52歳の女性にも同情する。

もちろん事故を起こしたことは取返しのつかない過失ではあるけれども、
誰も事故を起こそうと思って運転しているわけではない。

高齢者の事故も痛ましいが、
52歳というまだ働き盛りの
家庭の主婦であれば、まだ家庭の中心である年代であることを考えれば、
その親の年代に近い私は気の毒でならない。

本人はもとより、家族の方々も辛い思いでいられると思う。

私は、福知山線事故のときも思った。

亡くなられた電車の乗客の方々の痛ましさは言うまでもないことであったが、
しかし、あの事故を起こしたまだ若い運転士のことも気の毒に思った。

そのご家族のことも・・・。

もちろん事故を起こした運転士が一番悪かったのだろう。

しかし時間通りの運行ができなかったら厳しい罰則が科されることを思えば、
無我夢中であったのだろう。

人を責めることはたやすい。

が、自分がその立場に置かれたときのことにも想像力を働かせたいと私は思う。

今回の大津の事故も、
運転していた52歳の女性に、
何か先を急ぐ事情があったかもしれない。

結果的にああいうことになってしまったが、
事故を起こしたため、すぐに犯人になるという悲しい現実。

たしか池袋の高齢者の事故では加害者は逮捕されなかった。

それは、事故を起こした人が社会的地位のある人であったからと言われている。

事故を起こしたことには変わりないのに、
市井の無名の住民は、すぐに犯人扱いされる過酷を思う。

もちろん被害に遭って亡くなった人の人権が一番大事にされなければならないが、
しかし、事故を起こした人の人権にも少しは配慮をと言うと非難されるだろうか。

いずれにしても、交通事故というものは二重に悲しいことだと思う。

麻雀で思い出す二話

2019-05-10 04:44:55 | ブログ記事

麻雀が頭のスポーツという記事が出ていた。

私は麻雀はしないが、麻雀にまつわる思い出はある。

麻雀はトランプのセブンブリッジに似ていると聞いたことがある。

セブンブリッジには夢中になったことがある。

高校のころ、難聴の私は美大に行きたいとデッサンを習いに行っていた。

その教室のハンサムな先生が教えてくれたのがセブンブリッジで、

デッサンが終わると皆でセブンブリッジを楽しんだ。

歌も皆で大声で歌って楽しんだ。

楽しい教室だった。

が、私のデッサンの腕は全然上達しなかった。

ハンサムな先生は、私の人間的な成長が必要と、

さまざまな思想的な本を貸してくれた。

が、精神的に幼かった私には、あまり理解できなかった。

そのうち、母があまり見込みのなさそうな私を

その教室に通わせることを止めさせた。

その当時は、私は母の言いなりだったので、黙って従った。

いま思い出しても、自立心のない子だったと思う。

そして美術とは全く関係ない短大に進学したのだが、

そこで、私に熱をあげたクラスメイトがいた。

夏休みには高知まで来たし、

私がセブンブリッジが好きというと、

セブンブリッジは麻雀に似ているから麻雀を教えてあげると、

クラスの他の学生数人と私の下宿に麻雀のセットを持って教えに来てくれた。

そして教えてくれたのだが、

一度では理解できなかった。

その人は、麻雀を餌に私に近づこうとしていたみたいだったが、

私は、その人をあまり好きではなかったので、

以後、麻雀を教えてほしいとは思わなかった。

それで、それっきりになってしまった。

私とマージャンとの関係は、これで終わりだったが、

麻雀に関しては叔父(母の弟)の思い出もある。

叔父は、家業を手伝っていたが、

祖父の権力が強すぎたこともあってか、あまり身を入れて仕事をする人ではなかった。

その代わり遊ぶことは好きで、

夜になると、誘われて、あちこちの友人宅で麻雀をするのが常だった。

参加すれば徹麻になる。

人付き合いのよい叔父だったから、誘われたら断らない。

普通の人は、誘われても、徹麻は週一度くらいにセーブする。

が、バカな私の叔父は、今日はAグループ、その次の日はBグループと参加し続け、

ついに過労で肝炎になった。

祖父(母の父)は厳しい人だったから、

叔父がマージャンをすることだけでも許しがたいことだった。

だから、叔父は徹夜で麻雀をした翌日も朝から起きていなければならなかった。

それでだんだん疲労が積み重なったのである。

最後は肝硬変で亡くなってしまったが、

世間の人は私の母に、

「弟さんはお酒を召し上がる方でしたか?」と聞く。

叔父は下戸で、お酒は一滴も飲めなかった。

まさか麻雀のしすぎで過労になって肝炎になりましたなどとは言えない。

結局、叔父は、49歳で、祖父母を残して亡くなってしまった。

なんと親不孝な叔父だったかと思うが、

しかし、その叔父の息子は隔世遺伝か、祖父に似て真面目で勉強もよくできたから、

医師になった。

叔父は、直接の親孝行はできなかったが、

息子を医学部に入れてから亡くなったから、それが少しは親孝行になっただろうか。

以上、麻雀で思い出した話である。