鎌倉時代の“元寇の船”の一部か?長崎沖で新たに見つかる〜水深15mの海底
元寇を簡単に説明すると、1274年(文永)と1281年(弘安)の二度に渡ってモンゴル軍、当時の元帝国による倭国(日本)への侵攻である。
その頃の倭国は鎌倉時代。北条時宗政権下だった。
これは弘安の役で元軍が撤退する際、日蓮が祈って起こしたいわゆる”神風”によって沈んだ元寇の船のようです。
学校の教科書では“台風🌀”により戦わずして運に恵まれたとされていたが、実際には鎌倉武士による奮闘と、武士と島民の犠牲により倭国が侵略から守られたのである。
“神風”について、台風🌀という説と季節的に台風ではなく“暴風雨“との説がある。
弘安の役は7月であった。季節的に台風というのは、不自然という解釈で良いと考える。
これが”神風“になった経緯は、実際には武士の活躍によって撃退したのだが「武士が大活躍して国を守った」ことを絶対に認めたくない公家連中が「我ら公家が祈祷をしたお陰で”神風“が吹いて敵を撃退したでおじゃる」
「ほんに、そのとおり!全く武家共がバカ騒ぎをしおったが無駄な事でおじゃったなあ」
として広めたらしいとする説もある。
《jok******さんのコメントより引用》
日蓮の祈祷説はいったい何処から来たのか?
それは取り敢えずおいといて
元軍の船は中国製(南宋製)の特徴があり、造船はモンゴル人によって作られたのではなく中国人に作らせていたらしい。
兵士は高麗朝鮮人で、モンゴル人は幹部や隊長のみだったらしい。
総大将はモンゴル人のヒンドゥとクドゥンといったらしい。
《阪急沿線民さんのコメントより引用》
元帝国の支配層はモンゴル人だが、国民の大半は中国人や韓国人やその他だった。モンゴル族の一般国民というのは、元帝国領土内のモンゴル高原と、中国大陸に遊牧していた。
元寇から750年も経っているのに3隻も構造物の特徴を留めているというのは奇跡だ!
海中に関わらず木材が朽ちておらず、遺物も含めて、潮に流されずそこにとどまっているというのも本当に奇跡中の奇跡である。
元寇というのは文献や教科書の中だけの物語などでは決してなく、本当に元帝国に侵攻され、武士が奮闘し、武士や島民の犠牲があったという実感が湧いた。
平和というのは、沢山の人の犠牲の上に成り立っているということを考えさせられた。
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