



太平燕は、 「たいぴーえん」または「たいぴんえん」と読み、日本でアレンジされた中華料理の一種。春雨スープにエビ、イカ、豚肉、白菜、タケノコ、キクラゲなどの五目炒めを合わせ、揚げ玉子を添えたもの。熊本県のご当地グルメ。 by WIKI
長崎に行ったとき、「チャンポンはどこがおすすめですか?」と聞いたら、
「なんば(何を)わかりきったこと聞くとか(聞くのかい)?」という顔をして、
「リンガーハットたい(なのだ)!」と即答された。
だが、同じ中華料理でもタイピーエンは、全国区ではない。中華というと広すぎるのでもう少し絞って言うと福建省の郷土料理だそうだ。明治時代に華僑がもたらし熊本に定着した。
したがって、チャンポンのようにどこでも食えるというものではない。ご当地まで行くというひと手間がいる。
それがまたいいのだ。
アヒルの卵は入手がたやすくないので鶏で代用。元来肥後筑後地方は薄味である。僕にはどぎつくなくて食べやすい。
あまり有名になると値段まで跳ね上がる。ぼくの経済レベルで言うと、柳川の「うなぎめし」は6000円まで跳ね上がったが、それは犯罪レベルだ。
peace swallow 香蘭亭 いやな薬が見えるが、糖尿がなんだっ! 韓国語でいうと먹고 죽자 (死ぬまで食うぞ)
郷土料理は概しておいしいものではない。おいしいなら郷土にとどまるはずはない。
タイピーエンは例外だ。上通り(かみどおり)の香蘭亭。
味はもちろん、価格、客層、店の雰囲気、洗練された接客、…非の打ち所がない。
熊本自体が、
食に限らずセレクトショップが多いこと、その水準の高さ、…素敵な街だ。
頑迷固陋な人が多いのにどうして衣食住すべてに上品なのだろう。
傘立て
おおらかなんだよ。
上通り、下通りを歩いてみたらわかる。福岡、天神西通りの混沌、喧騒とは隔絶した水準だ。
目先の利益しかわからない西鉄が牛耳る福岡はいち早く市電を廃止した。熊本は逆に延伸を検討している。欧州の上品な街には必ずトラムがある。
アメリカのクライスラーはアメリカ中の市電を買収し、一挙に廃止した。貧乏人は無理をしてでも排煙の出る移動手段を選択するしかない。そうしてキャピタリズムは繁栄を謳歌した。
形容矛盾だが、強制自粛もだいぶ緩んできた。コロナのさなかに外食か、と責められることももはやない。社会的ヒステリーも落ち着いてきた。むしろ、きちんと対策をしたところは家より安全だ。
庶民の家は台所と食堂とリビングが三位一体の場合が多い。「密」を避けることは不可能だ。
きやすく「外出を控えろ」などというが、外出しないことがせまい家ではコロナウイルスを培養することになる。
自宅勤務ができる人はそもそも国民のごく一部だ。自宅で百姓はできない。自宅で魚はつれない。自宅に工場はない。それが普通の生活だ。ものづくりをしていない人だけがリモート勤務が可能だ。
「密」におびえ回避できないでいる人は毎日がロシアンルーレットだ。
電車で通勤するとき「密」をどうやって避けろというのか。麻生は民度が低い国にはコロナ患者が多いといったが、東京は相当民度が低いのだな。ああ?おい!
できそうなことばかり、あるいは実施しやすいことばかり強調しているが、「密」を避けようがない人がいることを世間は話題にしたがらない。
「みんなが自分のできることでコロナと戦おう」というともっともらしいが、その熱意を汲んでくれるほどコロナはお人よしではなさそうだ。
防疫という戦争なんだからそれなりに頑張っても勝てるわけない。また同時に、そもそも勝っているわけでもない。まともな解析のグラフは、⇩のようになる。(理由は前回)
日本はとりわけ優れているわけでもない。しかも、最近はもっと状況は悪化している。
で、ぼくは国の言いなり小僧だから三密を避けて、イタリア料理を食べに行った。鳥栖市。庶民の皆さん、食事とはほんらい個室でするものです。
バージンオイルはむしろコレステロールを下げる。
カツオたたき、生姜ドレッシング、シラス、コーンスプラウト(これが季節を感じるんだ)
ビーツで色を付けた
アサリ貝、桜海老、ビアンコソースがかかってカボスが添えてある細やかさ
金持ち喧嘩せず。つまりトラブルはつねに貧乏に寄り添う。寿命と所得は比例する。そういった格差社会を選んだのは貧乏人の方だ。
さて、食事のつづき、
自家製パンチェッタ、甘えび
メロンのパンナコッタ、キンカンゼリー、ブルベリーのプリンというデザート
コップはその昔、宮内省御用達の深川製磁
日本に住んでてよかった。アメリカだったらコロナ予備軍(トランプの言うDomestic terror)に襲撃されただろう。
そのコロナ予備軍カラードやプアホワイトはトランプの岩盤支持層なんだから世の中解せぬことばかりだ。
少なくとも言えるのは、今のアメリカは、日本の近未来だということ。
テリーヌ(フランス語:terrine テリヌ)は、フランス料理で使う、釉薬をかけたテラコッタ製の蓋付きの土鍋、あるいは壺・鉢・深皿。現在では琺瑯引きの鋳鉄製の鍋もテリーヌに含まれる。これを使った料理もテリーヌと呼ばれる。 WIKIから引用
四角い鋳物の鍋から、テリーヌドショコラ(見出し画像)ができたりポトフテリーヌ(下の画像)ができたり。あまり固いことは言わない。冷製、熱製ともにあり。
一辺が10センチのほぼほぼ正方形のポトフ。
ポトフ(仏:pot-au-feu、ポトフーとも)とは、フランスの家庭料理の一つ。鍋に塊のままの牛肉、野菜類に香辛料を入れて長時間煮込んだもの。フランス語でpotは鍋や壺、feuは火を示すため、「火にかけた鍋」といった意味になる 。 これもWIKIから引用
ま~、こんなに小さい肉で高いカネとりやがってと、決して思わなかったのだ。うん絶対思ってない。が、食べてみると若干想像よりどっさりあった。
味よりも、値段と量の関係をつい重視するのは悲しい貧乏人の性だ。。ぼくはそんな比較はしたことないのだ。
昔は歯科治療の技術も低かったのか、フランス料理とはたいてい歯ごたえがなく、「柔らかい」とは誉め言葉にしか使われない。
食べすすむにつれちょっと単調だなと思ったころ、ちっこい卵に行き当たり味わいが変わる。なるほど。全体になかなか濃厚。女性にはちょっと、量が多すぎるかも。
たいてい別腹があるから大丈夫か。しっかり甘いハート形のマシュマロがデザートに来た。
そのあとにウインナーコーヒー
グラタンドリアンのテリーヌもあった。これは味は不明。ぼくは食ってない。ポタージュスープの下に玄米があった。
ライスを頼んだら、
スープじゃないけどと思った。が、中身は玄米。そんなにうまいかな、玄米って。濃い肉の味とのバランスを取ったと思う。悪くはなかった。肉の味を程よく中和する。
この店は元、鳥栖市にあったが最近引っ越した。いま、なかなかいいところにある。その名も「味坂」、鰺坂とも。福岡県小郡市。
一人キャンプの費用の10倍以上かかったが、映画「ストロベリー白書」のポスターとか、映画解説の淀川長春さんの写真がたくさんあって、しばし70年代をさまようことができた。ポスターを見て初めてイチゴ白書の音楽はジョンレノンだったと知った。実話。大学生のからけんには、キム=ダービーが天使のように思えたが、今見るとそうでもない。
だからこそ、天使に見えるときに見ておくべきなのだ。
過去は振り返らないぞ、なんて意地を張らず素直に追憶に浸った。これもありかな。
帰りにはやはり一人がいいなと思いなおす。菜の花を摘んだ。
今年最後の菜の花になる。ぼくには菜の花に酢味噌がにあっている。それに湯気の出ている玄米じゃなく白米。
桜並木は咲く寸前。佐賀県のコロナ患者数はよそから来た一人。ここでは人が吐いた息を吸うことはないからコロナは関係ない。
見た目がそんなだから人間は何のためらいもなくアンコウを食う。
アンコウの顔が子猫のようだったら、それを食うと言ったらきっと動物愛護団体が青筋立てて怒り狂っただろう。
かわいそうなアンコウ。・・・でもおいしいアンコウ。いっそ自分で作るかと思っても九州ではアンコウ自体が入手しにくい。
東のアンコウというが最近、九州では北の韓国に食いに行く人が多い。1000円出せばもうこれ以上食ったら死にますというくらい食える。交通費?そりゃあエアトリよ。
アンコウは、韓国漁船につかまるか日本漁船につかまるかの違いでその価値に10倍の開きが出る。もともとアンコウ自体に国籍があるはずない。韓国漁船につかまったアンコウは内心忸怩たる思いがあるだろう。
ぼくの収入ではとても日本のアンコウ鍋は高くて食えない。日本にいるときは自分で作ったりするがその限りにおいては韓国のアグタン(アンコウ鍋)がうまい。ふーっ、ふーっ、してもらって、田舎の闇営業のオンドル房で「はい、たらけんさん、あーーん」。
Maade in Korea 大味だが、韓国のとくに慶尚道の男は細かいことは言わんのだ。
Made in japan きれいで素材の味が生きる日本製。
私のブログだから、どちらも甲乙つけがたいとか公平ぶる必要はない。ぼくは、激安で個室であふれるアンコウの肉、プラスおねえちゃん。これが嫌な人はモテないことを僻んだブ男かブスかオカマかホモだ。
長くなったので、アンコウ自体についてはまた明日。不思議だろ、体の一部が伸びて釣り竿になりルアー釣りをする生き物なんて。
相撲の曙関が来て、メニューを提案した。それが曙丼(あけぼのどん)。何でもかんでも海の高級食材が詰め込まれている。サザエ、アワビ、エビ…。
彼は素晴らしい言葉を残した。人相が悪い人だが、その言葉でいっぺんに彼が好きになった。「絶対に値上げしないでくれ」
その一言により中西食堂はずっと1000円で頑張っている。でも食堂のおばさんは、「今度の消費税でどうなるかはわかりません」と言った。
精一杯曙との約束を守ってきた。そこでほかのメニューとの間にアンバランスが生じている。福岡市内でこのレベルを食えば安くて4000円だ。だが、重要な点はいくらカネを出してもこの臨場感を、漁船のエンジン音が聞こえるここで食わなければ感じられないこと。
色彩的にいかにも漁師飯だ。しかし、このごろ著しい値上げで一般的にサザエ、アワビの類は、天文学的価格になっている。それがこれでもかと入っていてワカメがどんぶりの中に塩風を吹かせている。
サザエさんの漫画を描いた長谷川町子さんが住んだ町が対岸にあり目視できる。
あまりインテリアにはこだわらない。飯を食うところが食堂だ。だから味で勝負するんだ。いすやテーブルは関係ない。…という威勢のいいおばちゃんの声が聞こえてきそうだ。大きくシャキシャキした張りのある声で注文を取る。
そうでなくちゃあ、と僕は思った。味噌汁お替り無料。そう来なくっちゃあ。
↑の画像で鳥居を探してください。その鳥居の向こうが船着き場。福岡のベイサイドプレイスから高速船で30分。約500円。
ぼくは車で行った。駐車場の看板の手作り感がいい。
色紙はこの3倍あった。
人間の感覚の中で一番最後に発達するものは、「苦味」である。この苦みの良さを分からない人はまだ脳の発達が十分でないガキだ。
人生の苦みも同じ。苦しいことは嫌だとばかり言って逃げていると人生の苦みの良さを味わいそこなう。
栄螺。奥の奥の先端までひねり出した時の快感。苦みのご褒美。
名刺もらった。
そのあと弘(ひろ)漁港で乾燥ワカメにゴマをまぶしたのを買って志賀島資料館に行き金印でハンコを押した。
コペンご苦労さん。その資料館(無料)がある国民休暇村、駐車場で。
カネを使うと楽しいが使わないともっと楽しい。
儲け話に絶望の田舎が飛びついた。そして、一杯食わされた。
ことの顛末を要約すると、
ある私立歯科大が、学部の増設のためこの町に白羽の矢を立てた。そもそもがあり得ない話だった。
池の鯉が、千載一遇の好機を逃すまじとわれ先にたった一片の麩(ふ)を求め殺到する。用地買収は進んだ。
そして、大学は言う。「あんたんとこ行かないよ」
ともかく、池の鯉が百戦錬磨の鯉料理人に勝とうものか。農民から集めた土地が宙に浮いた。いいように踊らされた町はそれに気づかず、公金をどぶに捨てた。
農民は、土地成金になり学生アパートを建て…と皮算用をした。
紆余曲折を経て大学が来るはずの土地は公園になった。
(この事件のころ僕は学生で、ゼミでこの事件を取り上げた。いずれシリーズ化して書きます。)
水沼の里というその公園。住民からは失政を糾す声が上がることもなく、池の鯉はすぐおとなしくなった。
小学生が遠足に来ていた。
幼稚園児も
いきさつはともかく、本来なら到底あり得なかった公園とその他の施設が、思わず現実に誕生することになった。
浴場と食堂、老人保養研修施設(はやいはなしが町営カラオケ)…。今日はそのうちの食堂について。
福岡県のほぼ中央に位置するここは、ドライブやツーリングの拠点として利用させてもらっている。福岡歯科大ありがとう。
公務員がひとのカネと思って好きなように、あるいはぞんざいに経営するととんでもないことが起こる。
行政がまんまとペテンにかかりその失態をごまかすためにできた「水沼の里」。その中にある「水沼食堂」、上品な都会の薄味。絶品の醤油でやさしいばあちゃんの味。
このメニューが信じられますか。その価格。
まず200円の雑炊から、
立派な浴場も200円、雑炊も200円。これで町民の批判をかわせるのだからありがたい町だ。
醤油はもちろん不二家。
ぼくは定食。
andざるそばも。200円
ぜんざい、たこ焼き…。100円
もはや空気は「山滴る」の夏だった。
アーケイド街が寂れるのは生活スタイルの変化のせいだといわれる。 そんなことが原因ではない。本気で考える癖がないバカにはわからない。
アーケイドの中に時計店
沼にはまった白鳥が最後に羽ばたいていた
たとえば、船が沈むのは浸水したからだとか、頭が痛いのが頭があるからだという文章のどこに誤りがあるだろうか。
否、文章に誤りはない。内容にも誤りはない。浸水しなければ沈まない。頭がなければ頭痛もない。
だけどこの文章の異常さはたいていの人が気が付く。それはことの本質から照らしてこんなことを言う陳腐さを理解するからだ。
自民党はもちろん、公明党まで地方破壊に加担しておきながら口では地方創成を叫ぶ。日本の98%は、過疎が加速して悩んでいる。何が創成だ。
一方でバカは言う。「当たり前だ。産業競争力を維持拡大するためには分散による非能率を避けねばならぬ。」
その通りだが、先ほどの屁理屈の例でわかるように、ここでの本質はそれで幸せに生きる世界が来るかということだ。
バカは、そんなこと言っても諸外国との競争に負けて貧乏になったら幸せどころではない。悠長に構える余裕はないのだという。
つねに貧乏ににおわれて生活してきた人は銭カネこそが幸せへの特効薬だという前提で物事を考える。北欧諸国のGDPはいくらか。ブータンはどうか。日本は一時、EU全体のGDPを凌駕した。
じゃあその時は幸せのエクスタシーだったな。
そんな考え方が蔓延する日本は今後も価値ある昭和を消してゆく。風情とか情緒とか、銭カネにならないものは経済性という化け物が消していく。
ここで狂った動きを始めた経済に制動をかけ社会を修復できるのは、政治のほかにはない。、その政治が地方を破壊し口先は地方創成という。国民を欺くペテンじゃないか。
島原のアーケイド街はいずれ消える。それが良くないものなら消えるがいい。
そんなことはない。アーケイドに覆われると町は小さな宇宙になる。そこでの強固な共同体意識は自分の体の一部のように街をいたわる意識に満ちている。
今はやりの自己責任というガサツで不勉強なバカに受ける概念は人と人との連帯を断ち切る恐ろしい考え方だ。他人のことなんか構っちゃあいられないという考え方は、人らしさ、人らしく生きること、連帯による共同体を否定している。
消えかかるアーケイド共同体は回復不能だろう。また、無理に再生したところで商店街なんて必要ないという考え方のもと諸政策が行われるから「創成」するはずがない。
平和の象徴が鳩だからといって鳩をかわいがっても平和にはならない。
昭和の灯よ、どうか消えないで
窓は泣いていた 湧水亭
具雑煮
起源は何と天草の乱。天草四郎は手っ取り早く作れて力が出る戦場食を工夫した。兵糧として蓄えていた餅をメインにシイタケ、はんぺん、大根、ウナギ…、とにかく何でも入れて兵に食わせた。
文化文政になると姫松屋喜久平がアレンジした。
その姫松屋を屋号にして今日に至っている。客で混みだす前に2階で食うのが良い。雑煮は座って食うものだ。島原城が正面に見える。今なら桜も間に合う。
窓から島原城。
この坂道を島原高校の女子が下りて行った。僕は40年前この高校からの採用通知を受け取ったが、行かなかった。島原高校が素敵な高校であることは断った後で知った。
田舎の優れた生徒は、都会のそれとは違い伸びしろが大きい。もてる力を振り絞るようなみっともないことをして入学してきたのではない。
当然にひきつった強迫観念はなくゆとりをもって大学に行く。福岡の三流公立とは対極にある。
連れはきわめて機嫌が悪かったが、も一度高校勤務もいいなと思った。すれ違う高校生が全員あいさつした。男子は有難迷惑だが、女子からあいさつされると、この高校の先生になった気がする。
ちょっとした弾みがあれば、僕は島原の人になっていたことも十分ありうるのだ。なんだかふわふわ夢の中にいる気分がした。
ぼくの目線が部活女子のフトモモにいっていることにひどく怒っている人がいた。僕は機嫌を直すため絶望的な出費を強いられた。今思うと作戦だったのかも。
それは次回。
フェリーの中
FIATは今までのぼくのクルマの中で最も疲れない車だ。1000年前から椅子に座って生活する国と100年前まで椅子を知らない国とを比較するのは、最初から勝負がついている話でありそんな比較は意地悪だ。
これもフェリーの中
福岡から熊本長洲港に行くときはわざわざ有料の高速を通る必要はない。みんな80㎞/hourで走る5号線を下り筑後川の堤防から有明海沿岸高規格道を走る。そこは、90㎞/hour.
古賀誠先生のおかげだ。新幹線の駅ができ、高速のインターができアクセス用の道路は有明海を一周する計画でほどなく完成する。およそ見渡しても人工物がないところに一大インフラ施設ができた。
貧乏な地方は中央からお恵みをいただくしかない。九州の田舎では、いまだに議員の評価は中央とのパイプという誤った考えが主流だ。
頭が悪いとわかるはずもないが、厚顔無恥にも自民党の主張はこうだ。
補助金、交付金、国庫支出金(現在は名称を変え実態を隠ぺいしているが本質は同じだ)を国から多く分けてもらえるにはどうするか。自民党が当選しなければならない。つまり自民は正義である。
節操がない。ときの権力者に盲従するのが地方議員の務めだと。議員の本心は違おうが無学の民はそれで大宰府が良くなるならと見境のない行動をとる。
バカには輪留めが必要だ
土人が酋長を選ぶ時ですら酋長の統率力とか人望とか経験とかまっとうな理由で選出する。だから選挙カーから名前の連呼のみをするのは土人以下の民度だ。個々の争点について意見を言うより、名前を連呼して私は国からお金を持ってきます、中央とのパイプがあるんです、といった方が当選に近づく。
どこが民主主義でどこが地方自治か。
あまり利用されてない
当選のためには仕方がないというが、イギリスでは名前を連呼する選挙運動をしたら必ず落選する。住民はバカ扱いされたと思うのだ。日本ではなーーんにも考えないバカが、聞いた名前を条件反射で記入する。
どこが民主主義でどこが地方自治か。
料金2000円 映画より楽しい
沿岸道路の終点はほぼ長洲港だ。有明フェリー。クレジットカードを出したらこれなんですかといわれた。一番最後に駆け付けた僕の手続きが手間取るのを見てフェリーが待っててくれた。このゆるーいシステムは好きだ。
カモメパンはうまくないパンだと思ったらカモメの餌だった
ぼくをのぞき込むカモメがいた。ぼくの方もカカモメにガンを飛ばした。ぼくはそんなにおかしいことを言っているか、お前学校行ってないな、と思った。ネトウヨカモメかも。
船室。少女が本を読んでいた。スマホゲームじゃなくて本を。
次回は食事編
佐賀県鏡山山頂から唐津市方面
山頂は平たく桜が満開だった。
、松浦小夜姫(まつらさよひめ)の像が立ち、傍らに昭和天皇が来たとき読んだ歌があった。小細工を弄せず簡潔に心のままに歌ってあり、いわゆる「天皇ぶり」が出た歌だ。
そのあと海浜館に向かった。明治末、政府はタイトル画像に見える松原に鉄道馬車を引き外国人専用ホテルを作った。上海に生まれたジャック・マイヨール(Jacques Mayol, 1927年4月1日- 2001年12月22日)は父親の休暇に伴って唐津に来た。夏はこの海岸に潜った。(『グラン・ブルー』(Le Grand Bleu))
現在は同名のレストランが後を引き継ぎ、だれでも利用できる。鏡山を下りると虹ノ松原があり、その真ん中に世間とは隔絶してこのレストランがある。そこには大勢の佐賀県民がいたので食事はやめた。
脊振の山奥にはジビエ料理の店がある。その料亭の前に一台の上品な高級イタ車が止まった。
ジビエで頭がいっぱいになっていた男は写真を撮ると早々に店の中に消えた。キーをつけっぱなしにして。食後本人はキーを紛失したと思い込み店はちょっとした騒ぎになった。迷惑な男だ。
部屋は真正面に滝がありシーンとして下界とは別世界。
半回転して入り口方向を撮った。件のイタ車が見える。
今の季節だから桜肉が良かったが、それは熊本まで行かないと本物はない。桜肉はまたいつか。現地に行かなくても肉自体あるにはあるが、やはり気持ちが乗らないと味も落ちると思う。牡丹は脊振、桜は阿蘇。
あれっというような量だったが、ジビエだもん、獲れないときは仕方がない。まてよ。これは燻製だ。少ない肉も近くで撮ると大きい。
僕は、穏やかに食事をした。食い終わった後でキーがないことに気が付いた。
額に汗して長時間労働にいそしむ過労死予備軍、日本の労働者階級の皆さん。僕は平日のお昼にイタ飯(いためし)をいただきに出かけたのだ。
この頃は間違ってあぶく銭をつかんでいかにも自分が優れているかのような錯覚をして、これ見よがしにあほ車に乗り歌でも詠んでありもしない教養をひけらかしているつもりのバカが増えた。
ほんものの教養が身につくと人生が豊かになるが、本来見えなかったものまで見えるようになり悩みも増す。だけど、都合のいいものだけ見るわけにもいかぬ。
どうしても舞い上がったバカ、調子に乗って偏狭な国家主義を吹聴する低能…がいっそう目障りになる。どうすればそんな低能ができあがるのか、だれも何も言ってあげられなかったのか、と。
ま、そんなのに花を持たせるわけにもいかず、日頃から「知」の戦闘にいそしんできたぼくは自分へのご褒美に今週は外飯(そとめし)ウィークと銘打って食堂巡りをすることにした。
爾来、巷の極貧層は僕を非難するときよくこの名称を貼った。「プチブル急進主義」 いみじくもその通り。おまいらの顔には「ひがみ劣等感ひねくれ極貧ぐうたら退廃主義」を貼ろう。
そんなバカたちは自分の貧困や無能を認めたがらず、どうしようもなく認めざるを得ないときは頭が悪かったからとか運が悪かったとかとにかく自分という精神主体以外のせいにする。
当然に努力と才能と環境がそろえばだれでも生活や精神に一定のpositionを得る。努力、才能、環境のうち才能や環境は本人の責めに帰さない。しかし、ここはまじめに考えなければならないところだ。
だからこそ残りの一つである努力こそは欠かしてはならぬのだ。
脳細胞がひがみでできている人は話の本筋でもないのにこういう。じゃあ、からけんは相当の努力をしたんだな。僕は答える。人の心配は大きなお世話だ。自分のバカさかげんこそ心配しないと社会にとって不要で有害な人間になるぞ。
、
ぼくは努力したからこうして美食の報酬を得ているじゃないか。ほんとおいしい話だ。報酬なんてなくともよいが、努力に教養は必ずついてくる。努力しないで言い訳ばかりが上手になりひがんで片田舎で一生を終えた可能性もあったわけで、そう思うと実にぞっとする。
そのおいしい話。このレストランは紙のカードに1個/1000円のハンコを押してくれる。妙に電子カードなんかじゃなくて歪んだハンコも何となく人間臭い。ハンコが20個になると800円引いてくれる。ありがたいという本音もすこしある。
これは富裕層たるぼくを狙った店の陰謀だが、あえて引っかかってやることにしている。ウエイトレスの可愛さは関係ない。
国道沿いのブロイラー化した人間用のうるさく下品で汚れた婆が行く外食屋ではなく、文化を担うPetit bourgeoisが行く静かで駐車スペースが広い料理店がある。
労働に追われた下品な民は髪が乱れている、声が大きい、話題が貧困で、見栄ばかり考え、縮小コピーしたしつけしてないガキを連れる。この人たちの関心は価格と量である。
品のあるまともな外食業が勝負するときのポイント。
① いかに家庭で出せる味を超越するかにある。そのためにはいかに向上心を持ち続けるかである。というのは、うまいからと言ってイタ飯屋がラーメンを出すはずはない。が、イタ飯の範疇での多様性が問題だ。易しいことではない。この店は一度として同一の料理が定番になったことはない。動機を問わず行きつくポントは努力だ。
ぼくは尊敬している。これほどの発想の自由さ、大胆さはどこから来るのか。調子に乗って舞い上がっているところは早めにやめろ。くさい。 ξ
② 素人もまぐれでうまい料理ができたりする。しかしそれを異なる料理で続けることはできない。素人の料理にたとえ100点があっても所詮素人であるわけは、80点であっても決して60点を取らないプロには及ばないからである。
たまにするまぐれ当たりよりコンスタントな上品さは、えも言えぬ安心感となり客はその店のとりこになる。
店は安心感を与えているか。
③ 上記の①、②がそろっているという条件の下、どうぞ高い値段を設定してくれ。高級であるということはまねできないことをすることだ。だから閉鎖的であるのは当然である。金持ちだと錯覚したのが口にものをためて大声でしゃべるのは殺してもよいことになっているらしい。走り回る子供がいたら絞め殺してよい。横柄な態度でウエイターを呼んだらシェフはそいつの車の屋根で包丁を研いでよい。
下品なふるまいは食中毒より怖い。
その場違いを排除する威厳があるか。
上記①,②,③が満たされるとき、たかが飯を食うだけではあるが、うららかな春のひかりのなかに至福の時が流れる。
料理内容は次回