<前回のつづき>
当時の日本の立場はこうだ。未開な朝鮮半島を引き受けて40年間すさまじい投資をして教育し現代的な制度を導入し膨大な産業基盤施設を建設してやったのにいまさらカネを返してもらえないとかならまだしも賠償金を払えとは納得がいくはずがない。戦争に負け一文無しになったのち何の発言権もない状況で再び独立をするために周辺国にたいし低姿勢外交を行ってみたものの、的外れにも過去日本の領土だった韓国すら強引に奪われるのを受け入れざるを得なかったのだ。
そうではあったが朝鮮戦争により急激に経済が復活し1964年アジア最初のオリンピックも開催するなど景気のいい時代だったので6億ドルという巨額なカネを速やかに出すことができたのだ。第二次大戦の戦勝国でもない日本に賠償金を要求するということは国際的な視点から見るととんでもない主張なのである。
戦後日本が台湾と樺太は放棄したといっても朝鮮だけはもはや日本と一体になっていたのであるから植民地と考えるのではなく日本として取り扱ってくれとアメリカに何回も頼んだのであるが、戦勝国はこのような要請を拒絶し日本から韓国、北朝鮮、台湾、樺太をもぎ取ることで5個の地域に分割占領してしまった。国交協議の歴史を見ると日韓国交正常化のための会談は日本が米軍軍政下から独立した1952年から始まった。韓国政府の主張は、
1. 1909~45まで朝鮮銀行を通じて日本に持ち出された金249トンと銀67トン
2. 朝鮮総督府が韓国国民に支払わなければならない各種逓信局の貯金、保険金、年金
3. 日本人が韓国の各銀行から引き出していった貯金額
4. 在朝鮮金融機関を通じ韓国から日本に流出した金品
5. 韓国法人の日本国内の財産
6. 徴兵、徴用された韓国人の給与、手当と保証金
7. 終戦当時韓国人の法人又は自然人が所有していた日本法人の株式、各種有価証券および銀行券
など6個の項目に対し8億ドルを支払えというものであった。これを対日請求権という。以後、韓国と日本は対日請求権問題の妥結のために7年も会談を続けた。しかし、韓国の要求した8億ドルと日本が主張する最高額7千万ドルとの差が大きくなかなか両国の意見が近づかなかった。そうしたなか朴正煕政権に至ってはついに1962年11月12日金鍾泌特使と大平日本外相との秘密会談で合意したいわば「金-大平メモ」をもとにして協議案が妥結した。1965年6月22日日韓基本条約の締結と同時に「財産と請求権に関する問題解決と経済協力に関する協定」が正式に調印されたのであるが重要なことは財産請求権に対し日本が無償で3億ドルを10年間の分割払いをすることと、経済協力として政府間借款2億ドルを年利3.5%で7年据え置き20年償還という条件で10年間提供し、民間産業借款として1億ドル以上を提供するというものだった。これによって14年間も長引いた日韓国交交渉が終わったのであるがこれにより韓国では長い間激烈な反対デモが絶えることはなかった。日本はまともに対韓請求権を要求できないまま交渉を終わらせたのであるから後日日韓間に複雑なしこりが残ることになった。
<つづく>