何が悪いのか分からないが、どうしてもコメント欄を開けない。不愉快にも、かってにツイートだのフェイスブックのボタンが付いていた。ごちゃごちゃバラバラ変なものがついて、まるで田舎の縁日の飴リンゴの様に醜悪だ。切り絵貼り絵の細工をする人たちには有効でも、15文字以上の文章を書こうとする人には向いていない。
そこでいつもの声がする。いやなら出て行けよ。嫌だ、僕は出て行かぬ。絵日記もよかろうが僕はいやだ。文章で日記を書き、様々な意見を聞くのは、ブログの優れた特性だ。ありがたくも僕にはファンがいる。ファンがいる限りやめない。
常に人に同意を求め、人とメールやラインでつながっていないと不安な人が多い。それは人類のあるべき姿ではない。本質を外れた存在こそ出ていくべきだ。
場末のストリップのように悲しく卑猥に点滅する赤い裸電球。それに群がる蛾はなぜこうも執拗に電球に突進するのか。
皆が突進しているから自分も突進できると、この上ない安心感を得るからだ。
僕にもそういう気持ちはある。初めてゴルフをした時、船に乗ったとき、クラッチ板を換えたとき、写真の現像をしたとき。僕は不安だった。だが、電球にまつろう蛾になったことはない。
僕は韓国人のとんま、お粗末ぶりをよく書く。4千万人もいれば中には優れたものがいる。しかし、その専門性はともかくとして、人間性においてまあましなやつは、一人二人しか知らない。
母集団が大きいので、これは十分に確からしいことだ。僕は韓国人のずるさせこさ汚さ身勝手さについては100分の1も書いていない。嫌韓集団もきっといやな目にあったのだろう。だからそれは事実だ。そのことだけを見れば真実だ。
バカは事実にこだわると書いた。上記の蛾のようだ。仲間になって電球に突進する蛾集団はなんと安心感を得られることか。
ここがポイントだ。多数というものの中に身を置いたとしても、それは鵜飼の鵜船が近づいてきたときの一瞬、一体感を感じたにすぎない。酷な言い方だが、ふと気がつくと自分は身障者として味方と思っていた奴から差別を受けることがある。就職、結婚。利害が絡むといつでも人は背中を向ける。
なんだお前は専門学校しか出てないのか。しかもあの何ちゃって学校か。こうしてふと気がつくと多数に安どして飛び続けていたが、仲間は一人去り二人去りしていく。安酒のような後味の悪さを残して。
気がつけばあなたは必ず少数派になっている。多数は幻である。人は、少数であることの悲しさを共通項として相互に確認することができる。われらはそのとき連帯できるのだ。