数時間前オウム裁判が終わった。オウム教団員でサリンを撒くことを知っていた者は50人以上いる。なぜ13人の死刑で済むのか。サリン散布を知っていて教団にいたものは殺意があるとみなしてはいけないのか。何十人も殺した被告たちを裁くのに16年もの年月が必要だったのか。そもそもこれ以上なく明白な内乱に裁判が必要なのか。サリン製造は簡単だ。高校の理科室でいくらでもできる。化学の授業をちゃんと受けていればだれでもできる。ただ実際作って人殺しはしないが。林郁夫は中心的な人殺しでありながらなぜ死刑を免れているのか。
不条理だ。すべてが不条理だ。殺された人以上の人がいまだに後遺症に苦しんでいる。
だからといって権力に仇を討ってくれとお願いするのか。権力とは犠牲者の悲しみを和らげるところか。ほう。いつからそうなった。法学上はじめて聞く異説だ。国家権力が統治行為を行うとき弱者や被害者のお願いを聞くものなのか。否。権力とは今日の生産関係を維持するために最高の強制力を持つものとして設置された統治機関だ。平たく言うと、社会を維持するためを第一に考えて裁判所というところは設置されたの。
残酷だが、無駄なところに無駄な期待はしなさんな。判決は被害者のためをつねに装う。そして判決はこの社会の維持のためを思い下される。
連合赤軍を思い出す。閉鎖社会での憎悪の増殖を人々は共産主義の当然の末路ととらえた。永田が何人殺そうと共産主義の末路とは関係ない。
外部との連絡が途絶えた小集団ではとんでもなく非常識が常識となる。このとき外の空気に触れてきて異常さを指摘する人がいても無駄だ。下手をするとその人自身が異常者扱いされる。異常の中では正常が異常なのだ。
会社、セクト、学校、学年、教科、組合、分掌、・・・どこもオウム真理教化する、連合赤軍化する。共産主義は関係ない。
では小集団のどこに問題があったのか。明白だ。異質なものを排除したからだ。均質なところに必ずファシズムは生まれる。歴史上そうでなかった例はない。大集団が均質になったとき悲劇は生まれた。人々がファシズムの郷愁に酔いはじめるとき、異質なものが排除され始める。
人はともすると耳に心地よくない言葉が聞こえてきたときさっと耳にふたをする。そういう安直な行動は何をもたらすか。僕が韓国の悪口をかけば皆さん絶賛だ。韓国をほめると途端に耳にふたをする。その人にとってファシズムはなんと心地よいものでしょう。つぎの詩の一節に賛同できますか。
みんな違ってみんないい。