垣根涼介さんの小説「光秀の定理」を読んだ。
見切りの目を養うことが第一の要諦である。
その見切りの目を養うために、
我らの修練はあるのだ。
己にとって本当に大事なことは、
人に聞いたくらい出分かるものではない。
懸命に考えて、
初めて自分なりのものが見えてくる。
それも最初は一歩だけだ。
それでようやく一歩進んで、
次の一歩目がおぼろげに見えてくる。
すべてそうしたものだ。
自分で汗をかいて、
必死に実感として分からぬ限り、
人様から聞いても何の役にもたたん。
人様の考えをなぞらえたような、
通り一遍のモノの見方だけではなおさらだ。
(細川藤孝)わしはの、
自分が馬鹿だとも思ってはおらぬが、
さりとて凡人の域を出るような
頭でもないことも知っている。
また、そう常に自覚して生きることが、
せめて凡人から愚者の道に墜ちぬ
唯一の方法だとも感じている。
物事の理は、自分で汗をかき、
必死に実感として分からぬ限り、
人様から聞いても何の役にもたたない。
本来の賢さとは、物事を平易に捉えることが
出来る素地(気質)を持つ者にしか訪れない
のではないか。
その時代の必然を倫理で測っては
判断を誤る。
物事は常に表裏一体となって変化し、
うごめき、進む必然なのだ。倫理や観念、
一時の結果論だけで事象を判断しては、
事の本質を見誤る。
人間が持って生まれた本来の能力に、
その素地に、たいした違いなどない。
それを、本人たちがある目的意識に向かって
ひたすらに磨き、鍛錬していくからこそ、
能力が初めて他を圧する能力を
産み落とすのである。
何かを成し遂げるに足る能力とは、
頭の出来不出来ではない。
その資質、その気質の問題なのだ。
今日のおまけ。
休日の午後。
みんなでお昼寝は楽しいね。
おしまい。