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呼子が上陸地点だと、糸島方面へはそのまま船で行くのが合理的です。魏の船は威厳を保つために大型船が考えられます。長期に停泊するので博多湾に向かうはずです。そうすると陸行の記述と合いませんので、大型船の長期停泊可能な伊万里湾に入ったと考えられます。そこから陸路で唐津方面に出て、おっしゃるように背振山系の南から山越えして伊都国三雲遺跡に向ったと考えると、三雲遺跡から奴国まで東南百里とすれば伊万里から五百里という表現は比率的にあっています。
でも方角は伊万里からやはり北東です。90度狂っています。方角がなぜ狂っているのかは明らかです。
帯方郡から東南万二千里に女王の都の邪馬台国があって、魏のライバルの呉を東海上から圧迫する戦略上重要な位置にある戸数15万戸以上の大国としたいから東を南にするためなのですね。
後に、伊万里を起点に西側を北松浦半島、呼子側を東松浦半島と呼ぶようになっているので、白村江の敗戦ころに敵の地理感覚を混乱させるために魏志倭人伝に習って地名をつけたと推理しています。長崎県や佐賀県、大分県、山口県(北浦海岸)までそういう間違った方角の地名が散見されますね(^_-)-☆
魏志倭人伝は西晋の創業者司馬懿の功績を称揚するのが目的で書かれたものだと推理できますから、距離や戸数もかなり過大に書かれていると思います。不弥国から里数ではなく日数表記したのは得意の十倍水増しだと推理しています。ですから行程記事をそのまま解釈して、誰もが邪馬台国と納得する場所にはたどり着けないです。
ですから、邪馬台国の場所は考古学や民俗学成果から推理する以外にないのですが、決め手は径百余歩の急造りの冢(直径約150mの日本最大の円墳)と東側が海に面しているなどの条件ですね(^_-)-☆
邪馬台国の場所も卑弥呼の巨大円墳や卑弥呼に関わる遺跡・遺物や地名から特定していますが、詳しくは「刮目天の古代史 卑弥呼の墓は見つかってるよ!」や考古学・民俗学的根拠を示した「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」をご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)
【関連記事】
「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ(^◇^)
考古学や民俗学の成果から卑弥呼の宮室は宗像三女神の降臨地の伝承がある安心院町三女神社と分かったので、逆に、どのようなトリックをしたのかを推理したのが以下の図です(詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった?」「投馬国へ水行してみませんか?」参照)。
【参考記事】
北浦海岸の名前の謎、判明 2015-02-08 09:34:45 日本の歴史と日本人のルーツ
混一彊理歴代国都之図 2015-02-08 09:38:32 日本の歴史と日本人のルーツ
最後まで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!
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