読み方は「たそがれ」、古文を学習した同輩には容易い質問で、失礼しました。この語の源泉の「誰(た)そ彼(かれ)」を発する場面は、夕闇迫るころ、暗くなってきて、対面するまたはすれ違う人の顔の識別ができない場面で、お前は誰か?と尋ねるときに用いられる言葉である。今日では、知らない方に対してむやみに問うことなど考えられないが、古い時代には、その行為が許された。知人が多く、今日より、人同士の交流関係が親密であったのであろう。夜明け時点でも、夕やみ前であってもいずれでも黄昏といっていたようであったが、近世になって、夕暮れ時のみに使うようになったようである。では、夜明け時点の薄暗い時分では、お前は誰か?と尋ねる場合には、「彼(か)は誰(たれ)ぞ?」「かわたれ」、「かわたれどき」と呼んでいた。現在では死語となっている。
黄昏は人生の盛りが過ぎたご仁に対して言うのであるが、晩年と同様、寂しい表現であり、あまり積極的に使いたくない。隠居した高齢者や、老年齢者を指して言う場合もある。 私見であるが、人生の盛りとは、若い時だけを言うのではなく、年を経て始めて得られるものも多い。人としての、充実した感動や満足度等は、まさにそれで、研ぎ澄まされた感性の備わった目で見ることが大切で、充実感や、満足度は年を重ねたことによってのみ得られると思われる。
最近の雇用マッチング傾向では定年後の継続雇用は当然であるが、定年退職年齢が見直され、年々高齢化している。コロナウイルスの感染で、企業の損益に著しい変化を生じさせ、マイナスどころか会社を維持できないほどの減益に始終している。その結果、従来の雇用関係を維持できず、雇用条件は変化し、雇止め・人員削減等の継続雇用が厳しくなっていることも事実で、今後の見通しは楽観できないが、終身現職を貫く人も出始めている。
もはや、人生の黄昏などと揶揄する言葉も死語になろうとしている。むしろ、体力・気力の続く限り、雇用関係を継続し、働く者の意向を大切にする時代になったともいえる。
専門性や、売れる能力を携えた者にとっては、AIの出現で、活躍できる範囲も狭くなったようである。階層社会のフラット化が進み、同一労働同一賃金や従来の正規・非正規の雇用関係に変化を生じさせ、男女の役割区分や、年齢の制限等が緩和されるなど、雇用環境のグローバル化は冷め、新たな多様化が進んでいる。
写真仲間でたまに出る会話の中に、夕暮れのコントラストが強くなる風景等を一の暮れ、二の暮れ等と呼んでいる。先般のブログで小生が紹介した「夜目遠目笠の内」で若干触れたが、日中の直射日光が射していると反射光が強く出て、ハレーションを起こしやすい。
この防止のために偏光レンズやNDレンズを使用するのであるが、これも美しい画像を得るために使っている。写真撮影では、撮影条件が常に変化することを考慮して、被写体の置かれた環境のホワイトバランス、被写体の動作、(シャッタースピード)ISO感度、露出等をこまめに修正する必要がある。黄昏に迫る撮影では、四季や月の満ち欠け、天候に左右され、毎回撮影条件は異なるものである。