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近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

吉川ミツ遺稿 生い立ちの章その1

2021年06月10日 00時00分05秒 | 日記

 明治22年1月15日巳年に私は生まれた。父貞文は青邨の長男で、母武子は林外の次女である。母が15日の小豆粥を食べて間もなく私が生まれたと語っていた。生まれたころは東京牛込区神楽2丁目20番地で、若宮八幡宮のすぐ隣で青邨の東宜園のある家で、父の家は、門を入って左側の小高い所に建っていた。私が物心ついた頃は、ここ100坪余りの地所は、当時の時価2万円で、横田國臣氏の所有となっていたが、横田夫人と母はいとこ同志なので、幼い時よりよく遊びに行った。そのころは、広い芝生の庭の一隅に、青邨先生の居間という二階建ての建物があって、母屋から廊下伝いに行けるようになっていた。

 その後、建て替わって、土蔵造りの広い玄関のある家となり、小さい貸家が何建もたっていた。横田家には女児一人あって、沖子さんといい、私と同年であったから、よく遊びに行ったり、泊まったりした。お正月には、お神楽が家に来て、おかめやひょっとこの面をかぶって踊ったのを今でも覚えている。

 門を出て左へ小さい坂を下った左側に長三州先生の家があって、私たち姉妹3人でよく遊びに行った。洋花が作られていて、よく頂いた花を写生した。

 

 父が衆議院議員となって、麹町の元園町へ引っ越した。お隣に厳谷小波氏が住んでいらして、よく遊びに行ったので、小波先生の雑誌によく、みっちゃん、よっちゃんというのが出てくる。6歳ごろからお琴を習った。おさらいの時の姉妹三人で写した写真もある。

 幼稚園と小学校も麹町小学校へ行った。8歳の時麹町一番町五番地へ越した。お堀端で、昔風の大きい門が建っていて、門の両側は長屋が並んでいた。その門を入って真ん中にある家で二階があった。家主さんの紀伊さんの家は、もっと立派だった。お堀端には桜並木があり、盛んのころはきれいだった。その下でよくおままごとをした。また、少し先の方に英国大使館があり、英国旗の立った旗山があった。小さい柴山なので、登ったり、転げ落ちたりして遊んだ。ある日英国夫人から小さな籠を頂いた。開けてみたら小さなシャボンのようなお菓子が入っていた。学校は麹町小学校に通っていたが、8歳ころから千賀のお祖父さんから、小唄や仕舞を習った。土曜から日曜にかけて、泊りがけで習った。

 

 茂子姉は、音楽学校に通っていて謡など振り向きもしなかった。お祖母さんはよく摘み草に連れて行ってくださったが、丸の内で摘み草をしたころを思えば、夢のような話である。10歳のとき、小石川の関口台町の家へ引っ越した。坂の途中にある家で、そこからちょっと坂を上った家で、車を引いて上る人が、エッサカホイと言って、登るのを芳子がよくまねしたものである。我が家は広くて見晴らしがよく、庭も広かった。欅の木が多かった。下の茶畑に桜の大木があって盛りの時は縁側からも見晴らしがよかった。

 学校は麹町小学校から隅田小学校へ代わった。古い小学校だったが、坂の上の方の新校舎が、新築されて、芳子はそちらの方へ通っていた。庭に何の木だか大木があって、フクロウが住みついていた。

 

 蛎瀬の叔父(母の弟)と千賀の姉とが結婚式を挙げ、しばらく奥の一間にいたことがある。その後、日田の森家より、姉(常子)に縁談があり、伯父が上京してきて、当時まだ女子大の附属高女に通っていた姉を養女として連れて帰ってしまった。

 母も何かと気を使ったらしく、神経衰弱となって、しばらく病床に就いたことがある。当時女子大に通っていたが、それ以来退学したようである。当時、目白僧園には高照禅師というえらい僧侶がいらして、母も深く帰依し、私たちもよくお参りに連れていかれた。そこの婦人会の幹事か何かをしていたらしく、法事の時にはお坊さん10人ばかり着て頂き、読経後、精進料理だったと思うが女子大の先生、赤堀さんに来て頂き、家で作ったものをご馳走した。その時は女中も二人くらいいたから、おかげで、釈尊の涅槃図をもそばでよく拝見した。花まつりの日は、小石川の小さなお寺で、花御堂の中に小さなお釈迦様が立っていらっしゃるのに甘茶をかけて上げ、お参りした。ある時花御堂のお屋根をそっくり頂いて、姉妹三人で、えっちらおっちら持ち帰ったこともあった。

 また、ご法要の時、大勢の坊さんが、梵字で書かれた小さな本を見て合唱する声明というものを聞いて、よい節だなあと思ったことがある。近頃になって音楽会にも出ている。若松町の隠居所の方ではよく摘み草をした。

 

 父が10年間出ていた衆議院議員の選挙に落選してから高田若松町に越して、女子大の寮舎監をしていたことがある。中国人の婦人二人と子供二人が、入寮していたこともある。

 子供は日本語もできたのでよく私たちと遊んだ。ちょうど、日英同盟のころで、茶話会の時、仮装して見せ、その他いろいろのことをした。そのころ隣の椿山荘も分寮だった。

父と兄はほかに下宿していたが、神田の方へ小さな家を借りて住むことになり、学校は富士見小学校に代わり、芳子は西小川小学校に上がった。富士見小学校の高等二年を終えてから神田の東西女学校に通学した。仏教系の学校で、校長は、田中舎身居士といった。

習字の先生は、のちに、書道で、第一人者と言われた春道壽海先生で、手を取って教えて頂いた。

 

 日本画は松林桂月夫人、雪貞女子、お花はこの先生も華道で第一人者となられた児嶋文茂先生でお茶も教えて下さった。その他も熱心な先生ばかりで、漢字も習った。二年の時、黄疸となり、その前、父が上海高務院書館に勤務することになり、家を貸し付け、私は寄宿舎に入った。母も上海へ行くはずであったが、私に付き添ったため、舎監が母と同居されるのを恐れ、上層部へ告げ口をしたので、寄宿舎にもいられず、すぐ隣の下宿屋に移り、養生した。(次回へ続きます)



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