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近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

母発病の章

2021年06月16日 00時00分05秒 | 日記

 昭和三十四年一月、母をお茶に呼んだところ、わざわざ着物に着替えてきたが、こたつに向き合って話していると、母の顔が腫れぼったいと思えた。母はその翌日から起きられなくなってしまった。それからは、しもの始末、三度の食事の世話から私一人がかかりきりで看病した。兄は何か仕事を見つけて働きに出て、晩には帰って来ていた。朝はご飯とみそ汁くらい作っていたが、仕舞には、ふりかけをかけて済ましていたので、済んでいないときはみそ汁を温めて上げた。夕飯は兄が魚を買ってくるのを焼くか煮るかしてあげると、よく小骨を出していた。昼食は、パンと牛乳をあげた。

 

 その後、千葉にいた孔敏一家は何としても上京したいといって、上京してきたので、安子は朝、私が起きる前に一回と、午後二回ぐらいおしめを替えてくれるようになった。それを朝から晩まで自分がお世話したようなことを子供たちに話して聞かせるので、また、私が主人の看病も祖母の看病もしなかったようなことを言って聞かせるので、私を敵視するようになった。そのうち、大阪の寿子から近いうちに東京へ帰るから、一度、大阪見物に来ないかと言ってきたので、後を安子に任せて、大阪へ行った。安子には、なお更そういわれるのだが、十日ぐらいの期間であった。

 

 大阪では、安藤と寿子が出迎えてくれ、電車やバスに乗り換え等々安藤の住居に向かった。大阪の家は庭も広く、裏に小川が流れていて、こじんまりした家であった。十日余りいたが、はじめのうち、少し血圧が高かったので、床に就いていて、近所のお医者様にかかる。血圧が低下したので、寿子と菊池を訪ねた。孝さんも留守であったので、安藤の泊まっている六甲山ホテルへ行ったら、松林の中のバンガローに通された。松林の中にところどころ小さな家が建っており、二人ぐらいならちょうどよい広さで、布団や毛布が備えてあった。食事は本館で食べた。一晩泊ってから、私は再び、菊池を訪ねたら二人とも帰っていて、大変喜んでくれ、もてなしてもらった。家は山の上にあって、焼ける前は伯母さまのお茶室があったところを下に降りると、池があり、伯母様のいらしたころは茶室もあったが、建て増しして立派な家となっていた。いろいろ昔話をしてお暇すると、近くの駅まで送って下さった。そこから電車に乗り、バスに乗り換え、帰途に就いた。

 

 今度は、新貝を訪問した。本宅もよいが、夫婦二人限りで、子供たちといってもみな成人していて、新築の家の方に住んでいるのだが、夕飯の時皆集まって食事をした。夜は広い部屋に一人寝かされた。翌日、駅まで夫婦に送ってもらい、駅の食堂で、食事をし、出迎えに来た安藤夫妻と一緒に帰宅した。今年一月前後七日目に逝った安藤家長男の初盆なので、坊さんに来てもらい、読経の後、冥土へのお土産を作って、近くの川に寿子と流しに行った。寿子はさぞかし悲しかっただろう。せっかく授かった初子をわずか七日ぐらいで亡くしてしまって。

 

 それから数日して東京へ帰って、また前と同じような生活が始まった。十二月二十二日ごろ、母が風邪を引いていたらしく、お医者様に診せたところ、肺炎だと言われたので、気を付けていたが、翌朝、誰もいないうちに息絶えていた。お医者様に大往生ですよと言われた。身体を清め、衣服を改めて、お座敷に移した。晩になって、山本かおるさん、健吉さんと皆でお通夜を催す。享年九十四歳であった。(次回へ続きます)



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