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近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

生い立ちの章その2

2021年06月11日 00時00分05秒 | ブックレビュー

 毎日、お医者様も来て下さり、ほどなく全快したので、妹芳子が肋膜炎の予後、暖越の山口氏の家に預けられていったので、私もそちらへ行くことになった。山口さんには奥さんと子供さんが一人あったが、都合で、お国の佐賀へ帰られたので、山口さんと私たちと女中さん一人となった。 山口さんはクリスチャンで、よい方だったが、朝になると、聖書の朗読をされるので困った。そのうち、母が来て、近所の百姓家の離れ二階家を借りて住むことになり、兄は学校の寄宿舎にいるので、女だけ三人の生活が始まった。妹と二人で、海岸を散歩したり、山に登って、花を摘んだりして毎日遊んだ。夏には、兄が帰って来て、竹内さん、矢山さんというお友達も泊まって、昼は、海水浴をしたり、晩は、トランプをしたりして遊んだ。竹内さんはバイオリンが上手だった。翌年の春頃、父が上海から帰って来て、一緒に暮らすようになり、間もなく国に帰ることになり、私と芳子が一緒だった。私は姉の嫁ぎ先の蛎瀬へ預けられた。芳子は新貝へ預けられ、兄は米国へ留学中で、お姑さんと女中が一人いたが、間もなく暇を取って帰り、姉が炊事をするようになり、私はしづ子のお守りをするようになった。

 

 蛎瀬の庭は広く、豊後梅が咲いてよく実った。ハクモクレンが庭の真ん中にあって、春には二階から眺めるとずいぶんきれいだった。畑にはキンカンがたくさん作ってあった。

 その他、ミカンや夏みかんもたくさんなった。裏の方には、川が流れていて、カニが這っていた。裏から山が見え、畑がどこまでも続いていたので、景色がよかった。隣の神社では、烏帽子衣束の神官が太鼓に合わせて練習するので、珍しく、いつまでも見物していた。

 

 裏の貸家の一軒に、為末という親戚が住んでいたので、よく遊びに行った。文ちゃんという私と同年の人がいたから、ある日、新貝の叔父が来て、姉が病気で佐賀の病院に入院しているが、容態が悪いからと言って、私と芳子を連れて佐賀の病院に行ったが、もう亡くなっていた。父も母も来ていたので、森の兄や親類の人とともに日田へ行った。日田の森家ではお姑さんが目の手術をして、床に就いていたが、離れに休んでいたので、こちらのごたごたは聞こえなかったろう。姉の葬式やなにやかも済んでからも、私たちは森家にいた。父が日田の町長に当選したので、田崎というところに家を借りて引っ越した。大原神社に近いところで、静かな家だった。朝は遠く三隅川の流れの音も聞こえ、打ちかわす砧の音も聞こえた。

 

 長く学校を休んでいたので、どこかに入学しなければと思ったけれど、日田にはまだ女学校がなかったので、高等小学校の四年生となった。芳子は二年生となった。その翌年卒業して、補習科というのに二年通って、学科を勉強し、専修科というのに入って、裁縫やミシンや刺繍を習った。芳子は、成績が良いので、遠方でも女学校に入れたいと思ったけれど補習科に入った年に、病気にかかり、休学した。病名は肋膜炎ということだった。

 

 床に就くようになって私もできるだけ看病に手を尽くしたけれど、ついに亡くなった。享年17歳だった。亡くなる前、母が帰って来て、しばらくでも看病したことは何物にも代えがたく思っている。せっかく帰ってきたけれど、母は、当時、白木屋で女店員の監督をしていたので、長くいられず、東京に帰っていった。父と二人となって、寂しいので、当時、流行していた越前琵琶を習うことになったが、蛎瀬の叔父は日田で弁護士をしていたから、日田にも家があり、二号がいた。お鶴さんという人で、琵琶も上手だったから、叔父も習っていたようである。私も遊びに行って、博多節を習った。

 

 蛎瀬の傍らに広瀬本家がある。昔の儘の家で家風も昔のままだった。初めて行った頃は、祖母さんが床に就いていて、広瀬正雄さんに坊やも広瀬の子、それから、お姉さんも広瀬の子と言われた。お婆さんも私達が行くと小遣いを下さった。お盆には、昔そのままにお供え物が並んでいた。日田には祇園祭というのがあって、小さい男子は甲冑姿で、小さい女子は稚児姿でお神輿について歩き、疲れるとおんぶしてついていくので、なかなかかわいらしいものだ。森の姉の子、文子というのが、稚児になって、神前で踊りながら、母さんは亡くなったわいのうといったので、乳母が縁起でもないといって𠮟った時は、姉はまだ生きていたのだが、間もなく亡くなった。それが、神のお告げによるものだったのだろう。

 その文ちゃんが病気になった。病名は脳膜炎だったが、高熱が出て、看病に手を尽くしたが、ついに亡くなった。息を引き取る前に、美しい仏様になる云々といっていた。わずか五歳の子供が、言ったのだから驚いた。さすが信心深い家の子だったと思った。姉が亡くなって、27日くらい後であった。

 

 森の家には姉のお姑にあたる人と叔母が一人いて、兄もよい人物だったが身体が弱かった。召使がに二三人、店の者が二三人、何も商売をしているわけではないが、山をたくさん持っていて、山の木を売買していた。兄も一年に一度くらい山に杉の木を植えていた。

 姉が亡くなって二年目ぐらいに、長崎からお嫁さんが来た。色白の豊満な身体つきの人で美人だった。私も望まれたそうだけれど兄の病身を知っている父が、断ったという。

 お嫁さんが来てからも、月の良い晩には舟遊びに行った。料理屋が川に面したところで、鵜飼を見せてもらったこともあった。その兄も嫁が来て五年目ぐらいで亡くなってしまった。(次回へ続きます)

 

 毎日、お医者様も来て下さり、ほどなく全快したので、妹芳子が肋膜炎の予後、暖越の山口氏の家に預けられていったので、私もそちらへ行くことになった。山口さんには奥さんと子供さんが一人あったが、都合で、お国の佐賀へ帰られたので、山口さんと私たちと女中さん一人となった。 山口さんはクリスチャンで、よい方だったが、朝になると、聖書の朗読をされるので困った。そのうち、母が来て、近所の百姓家の離れ二階家を借りて住むことになり、兄は学校の寄宿舎にいるので、女だけ三人の生活が始まった。妹と二人で、海岸を散歩したり、山に登って、花を摘んだりして毎日遊んだ。夏には、兄が帰って来て、竹内さん、矢山さんというお友達も泊まって、昼は、海水浴をしたり、晩は、トランプをしたりして遊んだ。竹内さんはバイオリンが上手だった。翌年の春頃、父が上海から帰って来て、一緒に暮らすようになり、間もなく国に帰ることになり、私と芳子が一緒だった。私は姉の嫁ぎ先の蛎瀬へ預けられた。芳子は新貝へ預けられ、兄は米国へ留学中で、お姑さんと女中が一人いたが、間もなく暇を取って帰り、姉が炊事をするようになり、私はしづ子のお守りをするようになった。

 

 蛎瀬の庭は広く、豊後梅が咲いてよく実った。ハクモクレンが庭の真ん中にあって、春には二階から眺めるとずいぶんきれいだった。畑にはキンカンがたくさん作ってあった。

その他、ミカンや夏みかんもたくさんなった。裏の方には、川が流れていて、カニが這っていた。裏から山が見え、畑がどこまでも続いていたので、景色がよかった。隣の神社では、烏帽子衣束の神官が太鼓に合わせて練習するので、珍しく、いつまでも見物していた。

 

 裏の貸家の一軒に、為末という親戚が住んでいたので、よく遊びに行った。文ちゃんという私と同年の人がいたから、ある日、新貝の叔父が来て、姉が病気で佐賀の病院に入院しているが、容態が悪いからと言って、私と芳子を連れて佐賀の病院に行ったが、もう亡くなっていた。父も母も来ていたので、森の兄や親類の人とともに日田へ行った。日田の森家ではお姑さんが目の手術をして、床に就いていたが、離れに休んでいたので、こちらのごたごたは聞こえなかったろう。姉の葬式やなにやかも済んでからも、私たちは森家にいた。父が日田の町長に当選したので、田崎というところに家を借りて引っ越した。大原神社に近いところで、静かな家だった。朝は遠く三隅川の流れの音も聞こえ、打ちかわす砧の音も聞こえた。

 

長く学校を休んでいたので、どこかに入学しなければと思ったけれど、日田にはまだ女学校がなかったので、高等小学校の四年生となった。芳子は二年生となった。その翌年卒業して、補習科というのに二年通って、学科を勉強し、専修科というのに入って、裁縫やミシンや刺繍を習った。芳子は、成績が良いので、遠方でも女学校に入れたいと思ったけれど補習科に入った年に、病気にかかり、休学した。病名は肋膜炎ということだった。

 

 床に就くようになって私もできるだけ看病に手を尽くしたけれど、ついに亡くなった。享年17歳だった。亡くなる前、母が帰って来て、しばらくでも看病したことは何物にも代えがたく思っている。せっかく帰ってきたけれど、母は、当時、白木屋で女店員の監督をしていたので、長くいられず、東京に帰っていった。父と二人となって、寂しいので、当時、流行していた越前琵琶を習うことになったが、蛎瀬の叔父は日田で弁護士をしていたから、日田にも家があり、二号がいた。お鶴さんという人で、琵琶も上手だったから、叔父も習っていたようである。私も遊びに行って、博多節を習った。

 

 蛎瀬の傍らに広瀬本家がある。昔の儘の家で家風も昔のままだった。初めて行った頃は、祖母さんが床に就いていて、広瀬正雄さんに坊やも広瀬の子、それから、お姉さんも広瀬の子と言われた。お婆さんも私達が行くと小遣いを下さった。お盆には、昔そのままにお供え物が並んでいた。日田には祇園祭というのがあって、小さい男子は甲冑姿で、小さい女子は稚児姿でお神輿について歩き、疲れるとおんぶしてついていくので、なかなかかわいらしいものだ。森の姉の子、文子というのが、稚児になって、神前で踊りながら、母さんは亡くなったわいのうといったので、乳母が縁起でもないといって𠮟った時は、姉はまだ生きていたのだが、間もなく亡くなった。それが、神のお告げによるものだったのだろう。

その文ちゃんが病気になった。病名は脳膜炎だったが、高熱が出て、看病に手を尽くしたが、ついに亡くなった。息を引き取る前に、美しい仏様になる云々といっていた。わずか五歳の子供が、言ったのだから驚いた。さすが信心深い家の子だったと思った。姉が亡くなって、27日くらい後であった。

 

 森の家には姉のお姑にあたる人と叔母が一人いて、兄もよい人物だったが身体が弱かった。召使がに二三人、店の者が二三人、何も商売をしているわけではないが、山をたくさん持っていて、山の木を売買していた。兄も一年に一度くらい山に杉の木を植えていた。

 姉が亡くなって二年目ぐらいに、長崎からお嫁さんが来た。色白の豊満な身体つきの人で美人だった。私も望まれたそうだけれど兄の病身を知っている父が、断ったという。

 お嫁さんが来てからも、月の良い晩には舟遊びに行った。料理屋が川に面したところで、鵜飼を見せてもらったこともあった。その兄も嫁が来て五年目ぐらいで亡くなってしまった。(次回へ続きます)


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