人は、考える葦である。天は自ら助けるものを助ける。

戦後の混乱から立ち上がり、文化的平和な国に成長した日本が、近頃反対の方向を向き始めた。偉人の言葉を考え直して見たい。

人は考える葦である 第6章  他力本願の生活

2020-11-23 20:19:41 | 随筆
 私の両親は、三番目の兄家族の世話になって天寿を全うすることができました。今も三世帯の家族はよく見られますが、前ほどではありません。その代わり老人施設が高齢化と共に増えて来たのです。実子の代わりに集団の施設で面倒を見てくれるようになったのです。中には子供の世話にはなりたくないと一人暮らしをしていらっしゃる気丈な方が見られますが、いろいろな事情によりお世話になる方も増えたと思います。

 私の家の近所には、総合病院の付属的施設がありますが、そこは普通のマンションのタイプがあり、介護を受けるようになったら、並列の介護施設に転居するのだそうです。聞くところによると北は北海道から南は九州まで引き合いがあるということでした。聞くだけで庶民とはかけ離れた施設と感じました。

 その頃は、そういう施設に入ろうという気はなかったのですが、毎日の生活に家事が非常に負担に感じられました。闘病が長引くと余生ということも考え、思い切ってお世話になりたいと考えました。二人の年金とわずかの貯えでスタートしました。ここの施設には、初めは自立できることが条件ですが、いざ入ってみると年齢に関わらず自立している人は、食堂を使わずに生活しています。私のように食事を毎回食べると高額の食費がかかりますが、料理に得意な女性は、高額な食費から解放されます。それから高額費用として、いろいろなサービスを受け持っている会社にその費用を支払います。サービスというのは、食堂、共同浴場、運動、飲み物付き休憩室、それに商店、病院を回る定期バスを運行するなどです。その他、自室に食事を運んだり押し車のお世話、薬のお世話などは、介護保険を使用しているのかどうか分かりません。

 私は一応食事の苦労からは解放され、自分の時間を持ち優雅で贅沢な生活はできますが、代償も大きいなと改めて感じさせられました。食事も、栄養士を擁し優秀なコックさんによるメニューを出すとはいうものの1か月も経たないうちに、同じ献立の繰り返しだということに気づきます。私は職が学校だったために、毎日の給食が飽きの来ないおいしいものだったことが忘れられません。安い費用で栄養のバランスを考えた食事を作る栄養士さんのご苦労はどんなだったかと想像します。やはり、いくら団体の食堂とはいえ、栄養と同じものの繰り返しをしない内容を提供してこそ高額の食費を請求する意味があると思わずにはいられません。年寄りの我儘でしょうか。  



人は考える葦である  第6章  しばしの休み 

2020-10-30 22:08:29 | 随筆
 今年は、コロナに明けアメリカの選挙に終わる一年でした。まだ2か月ありますが、もう年賀はがきが発売されましたから。

 私も波乱万丈な一年を、一歩天に近いところに住まいを移して締めくくろうと思っています。
というのは、私は闘病生活を続けながら何十年ぶりのプールで泳いだり、ブログを読んで頂いたり
夫を支えて過ごして来ました。中でも日本語教師は、自分でもびっくりするほど闘病の良薬になったのでした。しかし、元気で老後を送っておられる方には敵いません。ギブアップです。日常の生活を人の手を借りて楽に暮らそうと思いました。

 高齢化の日本は、元気で長生きなさっている方は幸せですが、病魔との両立はやはりお世話になる他ありません。そのための国家予算も膨大になっているのを心苦しく感じています。それで近所の支援的マンションに転居します。空いているのが丁度10階でしたので、見晴らしは抜群です。
普通の家で終の棲家と予想していましたが、少しゆっくり過ごすためお世話になります。

 そしてこのブログもしばらく休ませて頂きたいと思います。今や、ブログ2、957、845人と増えました。最近7万台になって喜んでおります。読者の皆さんありがとうございます。転居は老骨に鞭打っても長くかかることと思いますので、よろしくお願いします。読者の皆さんもコロナにめげることなく新しい年が良い年になり元気に過ごされることを祈ります。

人は考える葦である 第6章 ボランティア活動

2020-10-23 21:14:35 | 随筆
 最近はボランティアが災害に限らず広く行われるようになりました。私は最初の仕事を止めてすぐにボランティア活動に入りました。その頃は、ボランティア活動はあまり普及していませんでしたが、名目がついていないだけで存在はしていました。間もなく転居のため地域の奉仕を止めて現在の地に来ました。日本語教師をやりたいと思っていたので、市の講習を受けて登録したので、その年から日本語教師を始めました。車を利用して、国際センターをはじめ、各地の家庭で教えました。

 そのうち、県立図書館が新設され、以前からボランティアをしていた友人に誘われてボランティアの一員になりました。初めは人数も少なかったですが、少しづつ増えていきました。その頃
図書館の部長をしていらした先生が、私たちのために講習を開いて下さったのです。私の知識では消化できないような内容で、慣れるまで驚きの連続でした。

 ところがその先生の価値観が、その当時では珍しい進歩的な新進気鋭といってもいいほど新しい考えの持ち主であることがわかりました。その頃のボランティアに対する目線は、タダ働きを黙々とする種類と見られた時代です。上から目線で見ている人が多かったように思います。しかしその先生は、ここに集まった人たちはただの主婦(女性が多かった)ではないと一人の人として尊重してくださったのです。今だにいじめやハラスメントが後を絶たない時代です。上に立つ人がいい働き手がいると、思うように動かすことが多いのではないでしょうか。

 先生は、講習をするだけでなく、貴重庫を見せてくれたり、傷んだ古書の糸とじをさせてくれたり、展示の一角を使わせて下さったのです。ボランティアも、やりがいの気持ちがいやが上に
高揚したのでした。私は、常に顔を合わせる機会のない仲間同士の、コミュニケーションが取れないのを解決するために、展示室の入り口受付の机の下に連絡ノートを提供しました。後でそれがボランティアの歴史的資料に貢献したと言われました。子供向けの案内図や外国人向けの案内図も作りました。ところが先生がお辞めになり、館長さんも変わられてからは、自由にしていた今迄のことはできなくなりました。

 その後は、ボランティアにも機会をというので、何年かで交代する制度にしたらしいのですが
今行ってみても、ボランティアさんにお会いした事はありません。正職員が展示を変えたり
テーマに沿ったコーナーを設けているように感じました。それを見るにつけ、すばらしい人格の先生に出会ったことを幸せに思うと同時に、こんな充実したボランティアがあるだろうかと、今でも大きな思い出になっています。数々のボランティアに従事しましたが、ボランティアは
出会ったことや喜ばれたことは嬉しいですが、時間が経過すると本当に奉仕で終わるということの方が多いかもしれません。













   










  














    

 

人は考える葦である 第6章-仙台市の歌 自作

2020-10-19 21:33:43 | 随筆
 私は仙台生まれの仙台育ち、生粋の仙台っ子です。昔作った古い詩が出てきましたので、仙台の宣伝にいいと思い恥を偲んで書きます。後の方に少しノスタルジーを加えました。仙台を訪れてみようかなと思って頂ければ幸いです。

  朝日輝く太平洋を  遠くに臨む青葉山
  藩祖 政宗の 騎馬像が  城下町仙台の
  伸び行く姿  眺め入る

  奥羽に連なる丘陵の  流れを集めた広瀬川
  緑の街を分け進み  杜の都仙台の
  市民・小鳥の憩いなる

  躍動の若人 集い来る ゆかりも深い宮城野に
  学究の賢者も 海を越えて集い来る
  学びの都仙台は 研究の先達も生まれ行く

  ケヤキ並木とガス灯と  ペデストリアンデッキがマッチする
  地下鉄結ぶデザインや  駅に広がる公園は
  よさこい踊りや 雀踊りで若者たちの交流点

  仙台港の海の音を 宮城野原で聞いた 島崎藤村
  その頃の荒れ野が、心を癒したと 有名な詩になった
  中国の魯迅さんも 広瀬川河畔で学んだ

  広い広い宮城野原には 戦後いち早く野球場ができた
  それから何年も過ぎて 仙台は 政令都市にまで発展した
  伊達政宗は おにぎりやお米のシンボルとなっている




 

  

  

  


  









人は考える葦であるー第6章  スケール

2020-09-27 22:05:19 | 随筆
 私の日本語の生徒は、職場でも管理職になっているのではないかと思うほど仙台生活が長くなりました。初めて教えた時は市民センターだったのでバスで来ていました。次に不便だろうということでスーパーの休憩室で教え、自転車に変わりました。私が家の近くのレストランに変更してもらったときはカブになっていました。その間日本の交通規則を教え、普通車の免許を取り必要に応じて運転していたようでした。

 日本語学習の折々に、故郷オハイオの話も聞いていましたが、周りはファームの田舎だということは言っていました。日本では、犬を飼うと必ず散歩をしなければならなくて・・・と言ったら、実家では、子供一人に一頭ずつ飼っているけれどドッグランする位の庭なので、しないということを聞きびっくりしました。お父さんはスイカの栽培をして、いつもたくさん食べているそうです。彼女は、年1度のクリスマスと新年にかけて帰省するので、スイカが食べたいと残念がっています。その近く(といってもどの位離れているかわかりません)の幼馴染がジンバブエの大使館で働き、今年東京に転勤になって14日の拘束から解放され会えるのを喜んでいました。

 来日して3回も続けて富士登山した彼女はある時、北海道をレンタカーでドライブすると言って出かけました。キタキツネに遭うとか、事故が多いとか冷やかして送りましたが、レッスンにはいつもの普通の顔で戻ります。沖縄にも行ってダイビングの写真を見せてくれたり、登山する友達の練習に泉ケ岳に登ったりしています。

 先日は、寒立馬を見たいと青森に行きましたが、レンタカーで行ったと言われ、その時は気にもせず、現地の近くから車で行ったのだろうと思っていました。しかし、次の週に、日光の東照宮に行ってきたと又お土産をもらってしまいました。又レンタカーで行ったというので何処から?と聞いたら仙台というのです。私は「え?」と一瞬びっくりしました。あのつづら折りのイロハ坂を登ったのかと。貸し切りバスでさえ苦労して上がっていると思っていたのに・・・。

 やはりこの人は私たちとスケールが違うんだと、しみじみ思わせられました。来て三年続けて富士登山したり、今年も登ろうと思っていたのにコロナの影響でクローズしたのをとても残念がったり、沖縄でダイビングしたり、この他にも、帰省や海外への旅行など飛行機の利用は全く負担に感じていないようです。私も同年代では、そこそこ海外旅行はしましたが、現在は国内旅行の回数も絶えてしましました。自粛のせいではなく、加齢の坂を下りているからなのです。生まれ育ったところが違うだけで、頭の作りがこんなにも違うのかと感じさせられたひと時でした。今の日本の若い人たちも、先達のあとを切り開き大きい広い世界に羽ばたいて行くことでしょう。日本の狭いところでコロナと闘う日本人たちは、海外の爆発的な数よりは少ない発生率で済んでいることは喜ばしいことと思います。(?)