人は、考える葦である。天は自ら助けるものを助ける。

戦後の混乱から立ち上がり、文化的平和な国に成長した日本が、近頃反対の方向を向き始めた。偉人の言葉を考え直して見たい。

人は考える葦である 第5章アラカルト  上から目線

2020-02-29 21:48:21 | 随筆
 「上から目線」というのは、そういう態度を取る人は自分で気づかず、周りから言われることばのようです。それはハラスメントの基礎的行為であり、だれからも嫌われることです。

 記者は、囲み取材で質問をしますが、最近、その質問に対し「つまらない質問だね」といわれ更に追い打ちをかけるように「上司から言われているの、可哀そうに」といわれました。記者として多数の同業者の前で恥をかかされたのです。内心どんなにか忸怩たる思いだったことでしょう。そんなこと言われるくらい自分は能無しなのかと素直に解釈する人はおそらくいないでしょう。よく考えれば消費者の代わりに質問しているのです。そんな能無しが大臣の前に立てる筈がありませんし、会社の代表でもあるのですから、会社もろとも侮辱されたと悔しく思ったことでしょう。正当な民主主義の国だったら、誰でもわかります。しかしこの大臣は主(あるじ)の側近中の側近ですから、何を言ってもいいのです。

 以前にも何度も失言しているのも関わらず地位は安泰していますから一言で辞任する大臣とは違うのです。周りが聞くと嫌な感情を持たされるような発言を繰り返しています。何様だと思う人もいると思います。財産や肩書が人の価値ではないのです。

 一般社会でも人を上から目線で見る人をよく見かけます。「あの人いったい何様だと思っているのかね」と言われているのを知らずにいて何回もくりかえし、その中信頼をなくしていくのです。

 いじめやパワーハラスメントなどの基礎がここにあります。心の中は、相手に対して自分より頭が悪そうだとか貧乏のようだとか優越感を持つのです。ですから、言葉は、心をうつす鏡ですから、そう思ってもそれを表さないようにする気遣いが必要なのです。先の大臣はそういう気遣いを持っていない人格と思われます。私は母に、小さいころ「そんなこと言うと口が曲がるよ」と叱られました。あの大臣は心なしか口が曲がって見えるのは私だけでしょうか。
  

人は考える葦であるー第6章  公正さ

2020-02-09 12:48:37 | 随筆
今世界は新型ウイルス肺炎のことで悪い影響を受けています。中国から発したウイルスは、東洋を中心に世界の各地に飛び火しました。初めの危機管理が遅かったということは言われていましたが、最近になって重要なニュースが飛び込み驚かされています。それは、初めにその危険性を発表した医師が、偽証罪に問われ封じ込められたというのです。まるで70余年前の日本と同じです。日本は一応は言論の自由を保障されていて、そのような時は直ちに公表しないと逆に罰せられると思います。しかし中国ではいまだにそんな実態かとあきれるほかはありません。しかもその結果、世界に大影響を及ぼし、発言した医師が罹患して亡くなるという結果を生み出しました。すると国民は医師に賞賛の賞をなどと唱えているそうです。こんなことを世界の人はどうみているでしょうか。

 一方、国内を見ると、国会が又レベルの低いことになっているように見えます。つまり昨年から長々と桜の花見問題を扱っているのです。国民は冷静に見て、国のトップである首相の業績をよしとしていないことは明らかです。

 そもそも政治家はどんな考えで政治家になるのかといつもいわれます。立候補するときは大体初心に戻って・・・と言うことが言われます。初心は国民のためとか正義のためとか誰にも納得されるように言いますが、いざその世界に身を置くとだんだん駆け引きの世界に染まっていくのではないでしょうか。つまり、経験を積むということは、そういう処世術を学んで行くつまり護身に向かうのではないかと推察されます。自分の立身出世を優先させるのだそうです。現首相は二度目の挑戦をどんな気持ちで立ち向かったか評価はいろいろされてきましたが旧態依然として仲良し内閣といわれるような人事をして、大臣の不祥事にまで発展しています。当選回数、たらいまわしなどで、適材適所とか人材の発掘などという国民の賛同を得るまでに至らないように感じます。

 その心が自分の支持者を功労は考慮せずに票数に基づいての招待となったのではないでしょうか。妻の枠もあるなど誰が見ても不自然な招待者は公私混同ととらえられるのは当然です。このような政治が国民のつんぼ桟敷で行われているとしたら疑念はもっと広く広がるのではないでしょうか。こんな風潮が、議員の護身の習慣のもとになるのは疑うべくもありません。昔の童話で言えば、裸の王様とでもいうのでしょうか。自分の息のかかった人を側近に固めるというのは汚れた政治の世界というようにも見えます。このことが中国のあの卑怯な手段にエスカレートして行く懸念はないのでしょうか。国民はもっと賢く政治を考えるべきではないでしょうか。

人は考える葦である 第五章 アラカルト 動物の家族

2020-01-21 21:50:53 | 随筆
 動物は動物園や自然の中で多く見られ、その中には家族を構成しているのを見ることができます。自然動物公園では、サバイバルの厳しい世界を見ることができます。その中で鳥はつがいを一生続けるということを聞いたことがあります。身近にみられる雀では、具体的にそれを実感することはありませんが集団で飛んでいるのは見られます。渡り鳥などはたくさんの群れで移動しているのですが、その中に家族を感じることはできません。

 ある年の3月当地区の貯水池に白鳥が3羽飛んできました。ウオーキングの途中でそれを見た私は急いで近くのスーパーから、パンの耳を買って来ました。北帰行の前に餌をあげたくなったのです。白鳥はグレイの1羽と白の2羽です。私はとっさにこれは親子だと思いました。醜いアヒルの子はグレイだと認識していましたから。

 そばに制服の女子中学生が二人いて、なぜか部長部長と言っているのです。私は親子と思って観察していますと、1羽だけ離れているのです。後の2羽は必死になって食べていますが、1羽は離れて見ているのです。私はこの一羽を父親だと思いました。鳥なのに母子に餌をゆずっていると思ったとたん私は父鳥のほうへパンを勢いよく放り投げました。父鳥はやっと食べてくれました。鳥にも父子愛はあるのでしょうか?

 次の日、スーパーで日本語のレッスンがあったので(教室がまだできない頃)スーパーに行く前に池に行って見ました。3羽はまだ旅立っていませんでしたが、もっと見ていたい気持ちを抑えてスーパーのレストランに入り、生徒にいきさつを教えました。レッスンを初めてひと時が過ぎた頃、池が見える位置に座っていた生徒が「あれあれ」と外を指さしました。私も振り返り窓の外を見たら、三羽の白鳥がまさに飛び立って行ったのです。その時私は旅立つ白鳥を見送ることができてラッキーだったとつくづく思ったのでした。偶然は簡単にはやってきません。こんな良い光景を見られてほんとうに良かったと思いました。

 その上、幸せなことに、その池を正面から見下ろせるマンションに住んでいらっしゃった方が自分で撮った白鳥の写真を下さったのです。そしてもう2度と白鳥は飛来してくれませんでした。かもの親子が行列して水上散歩をしているのを見たぐらいです。最近はその数も減っています。
やはり自然は私たちのこころを癒してくれます。自然とともに生きるのが、平和の享受につながると思っています。

人は考える葦である-第5章 袖振り合うこと

2020-01-07 11:00:35 | 随筆
 私は昨年、二つの違った場所で男性と話をした時、思いもよらぬ経験をさせて頂きました。このようなできごとはめったに経験することができないので、思い出深いものとなりました。

 私の家の近くに貯水池二つを含む大きな緑地があり、造成が終わって住み始めた頃は、その周りや別な公園をはしごしながらウオーキングを長年やり、沢山の思い出を得ることができました。今は止めているので通路として通るのみですが、ある時そこで望遠カメラで撮影をしている男性に会い、何を撮っているのか聞きたくなり近づいて行きました。その方は、隣の古い地域の方で、ここのタウン造成時代をよくご存じの方でした。植物・動物何でも撮っていて、ここの生物には詳しいようでした。ここの緑地の写真を沢山収集しているとのことです。

 話をしているうちに、今まで25年も住んで初めて小鳥の集団を見ました。「写真撮ってくれと来るんですよ」とおっしゃたように、黒と白のかわいい小鳥の一群が木の枝枝を飛び交っているのです。初めはよくキャッチできなかったのに慣れると沢山見えるようになりました。私も最近よいものを見るとスマホで撮るので、「うちのハイビスカスが今咲いているのです」と見てもらったら、「おしべが黄色でしょう」とおっしゃるのです。私はそこまで注意を払わなかったので、帰宅してから見たらほんとに見事な長いおしべでした。初めて会った方から、短時間の出会いなのにとても勉強をしたような満足感で一杯になりました。

 ちなみに、この地区の豪邸区は、久しく家が建たず空き地の時代が続いたのですが、その時は、ひばりの巣があって、時々高く飛んではいきなり落ちるようすが見られました。それで降りた時の様子を見に行ってみたところ、ひばりは軽いので、落ちたように見えても助走で小走りに止まるのでした。「ひばり」の歌の中でひばりは、〔天の恵み・地の栄をたたえ栄あれと歌う〕とあります。その歌を口ずさみながら見とれてからもう何年も経ったので、そこの区画はたくさんの豪邸が立ち揃い、ひばりの飛ぶのを見ることはできなくなりました。あのひばりは、どこへ行ったのでしょうか。平地の空き地が減っている今日この頃・・


 もう一か所は私の通っているジムのプールです。いつものように水中歩きをしていたら、バタ足でなかなか進めない男性がいるのに気づきました。私はいつものお節介心が湧き、「バタ足は、膝を曲げないでしないと進みませんよ」とプールサイドでやって見せました。その男性はすぐにトライしたら、上手に進めたので、私も手で丸をしてOKサインを送りました。その後、私は泳ぎのブランクがあったため今はバックしか泳げなくなったと自分の泳ぎを始めました。

 私が何回か往復しているうち、その男性が練習を止めたことに気づきました。少し休んでいると、その男性が帰り支度をして私のところに来てくれました。そして「バックで25メートル泳げました」とニコニコして帰って行ったのです。あの男性はもともと運動神経はすばらしかったのでしょう。それでバタ足を教えただけで、バックを25メートル泳げてしまったのです。私は、長いことボランティアをしていたので、お節介なところもあるけれど、こんなに嬉しい思いをしたことはない位嬉しさをおぼえました。そして今はこのような嬉しい気持ちになることが、病気を防止したり、認知症の防止になるといわれるようになり〔病は気から}の逆の{気は病を治す}理論が成り立つのではないかと思います。

 報道によると日本だけでなく世界的に人間関係が良い方向に取りにくくなって来ているそうです。私が前に申し上げた「人は言葉で解決できるところが動物と違う」が逆行している恐れが起きているということです。人間同士の争いは、言葉も文化もない動物と同じと蔑むべきです。誰かが、国をリードする人の力が、国民を無視したリードをして国民のすべてを犠牲にするのです。自然の破壊、災害が増えている現在、軍拡をやっている場合でしょうか。冷静な人間らしい尊厳を失わない思考を為政者たちは持つべきです。
 子どもから大人まで国民は、袖振り合う仲でもほんわかしたよい気分になるのを望んでいます。ましてや未開発国、原住民の方々はそんなことも知らず自然の脅威にさらされているのではないでしょうか。

人は考える葦である 第6章  あれが安達太良山

2019-12-04 22:04:28 | 随筆
 「あれが安達太良山、あの光るのが阿武隈川」これは、高村光太郎氏が、心を病んだ妻千恵子と一緒に散歩した時に言った言葉とされる有名な一節です。この頃、この二つの福島の名所は、人々の心を癒し、豊かな資源を与えるよい財産だったと思われます。私も、亘理に季節毎のほっき飯、しゃこ飯、はらこ飯を食べに行くと阿武隈川の河口がある景色を海と共に眺めてきたものでした。

 その阿武隈川が、沢山の山々から雨水を集めて超大型台風19号による洪水や土砂崩れを各地にもたらしてしまいました。こんなにも多くの家々が浸水したり、急激な土砂崩れによって人の命を奪ったりしたことはあったでしょうか。被災された方々のコメントによると、時々浸水はあったけれど、こんなに急激な異変と損害は初めてだとおっしゃっています。やはり予報は出されていたものの、今までの経験で憶測していた方々は、逃げれる間もなく2階に避難されたりして命の危険もあったということです。

 新聞の報道を見ると、この規模の大きさは東日本震災の時と同じ今までと違う予想外の記録的な被害になったことがわかります。ここしばらくは、九州や山陰地方に大雨の被害が多く、東北は東日本大震災の記録的被害に、防災は主に地震、津波の備えに重点がおかれてきたように思います。この度の災害で、如何に治水が弱かったか、記録に忠実でなかったか、又堤防の耐水が不十分だったかに気付かされたのではないでしょうか。(ハザードマップが出来ていても、徹底しなかったようです)

 人の力は自然には敵いません。一見、便利や贅沢を満喫する良い時代にどっぷり浸かっているようで、肝心の自然災害に対処できる大切な部分が遅れていたのかも知れません。「水を制する者が国を制することができる」と昔から言われて来ました。地球の大きな変動に気付くことが遅れたとしか言えません。私たちはもっともっと自然の摂理に謙虚に当たるべきではないでしょうか。只、人知の及ばないことも考えられますし、科学者がいう人の環境破壊、地球温暖化などの影響も見逃せないことは明らかです。

 宮城県では、復興に840億円の予算を必要とすると発表しました。台風15号を含むすべての県の復興費はどのようになるでしょうか。今年は天皇の譲位を機会に膨大な費用が賄われましたが、天皇のおっしゃる国民に寄り添うということの実現のためには、被害を受けた方々に十分に予算をつぎ込むべきと思います。あろうことに、原発で移転を余儀なくされて新築した方が、再び被災されたという話を聞くと、復興には手抜きのない対処をお願いしたいと誰でもが考えるのではないでしょうか。

 東日本大震災で原発の大事故が起きた時は、無限の絶望感を感じ、被災された方々の果てないご苦労も思いやられました。そして最近多くなった自然災害。街は今まさにクリスマス景気に沸いています。これでもかこれでもかと思うほど電飾技術が進んでいます。しかし、被災された方が心からその景気にのることはできるでしょうか。光太郎氏がゆっくりと自然を愛でたように、誰でもがその安寧の日々が欲しい筈です。何年もかかる長期戦で復興をしなければならないのです。喫緊には、お正月を控えています。少しでも笑顔の多い新年を迎えられることを祈ります。