人は、考える葦である。天は自ら助けるものを助ける。

戦後の混乱から立ち上がり、文化的平和な国に成長した日本が、近頃反対の方向を向き始めた。偉人の言葉を考え直して見たい。

人は考える葦である-第5章 袖振り合うこと

2020-01-07 11:00:35 | 随筆
 私は昨年、二つの違った場所で男性と話をした時、思いもよらぬ経験をさせて頂きました。このようなできごとはめったに経験することができないので、思い出深いものとなりました。

 私の家の近くに貯水池二つを含む大きな緑地があり、造成が終わって住み始めた頃は、その周りや別な公園をはしごしながらウオーキングを長年やり、沢山の思い出を得ることができました。今は止めているので通路として通るのみですが、ある時そこで望遠カメラで撮影をしている男性に会い、何を撮っているのか聞きたくなり近づいて行きました。その方は、隣の古い地域の方で、ここのタウン造成時代をよくご存じの方でした。植物・動物何でも撮っていて、ここの生物には詳しいようでした。ここの緑地の写真を沢山収集しているとのことです。

 話をしているうちに、今まで25年も住んで初めて小鳥の集団を見ました。「写真撮ってくれと来るんですよ」とおっしゃたように、黒と白のかわいい小鳥の一群が木の枝枝を飛び交っているのです。初めはよくキャッチできなかったのに慣れると沢山見えるようになりました。私も最近よいものを見るとスマホで撮るので、「うちのハイビスカスが今咲いているのです」と見てもらったら、「おしべが黄色でしょう」とおっしゃるのです。私はそこまで注意を払わなかったので、帰宅してから見たらほんとに見事な長いおしべでした。初めて会った方から、短時間の出会いなのにとても勉強をしたような満足感で一杯になりました。

 ちなみに、この地区の豪邸区は、久しく家が建たず空き地の時代が続いたのですが、その時は、ひばりの巣があって、時々高く飛んではいきなり落ちるようすが見られました。それで降りた時の様子を見に行ってみたところ、ひばりは軽いので、落ちたように見えても助走で小走りに止まるのでした。「ひばり」の歌の中でひばりは、〔天の恵み・地の栄をたたえ栄あれと歌う〕とあります。その歌を口ずさみながら見とれてからもう何年も経ったので、そこの区画はたくさんの豪邸が立ち揃い、ひばりの飛ぶのを見ることはできなくなりました。あのひばりは、どこへ行ったのでしょうか。平地の空き地が減っている今日この頃・・


 もう一か所は私の通っているジムのプールです。いつものように水中歩きをしていたら、バタ足でなかなか進めない男性がいるのに気づきました。私はいつものお節介心が湧き、「バタ足は、膝を曲げないでしないと進みませんよ」とプールサイドでやって見せました。その男性はすぐにトライしたら、上手に進めたので、私も手で丸をしてOKサインを送りました。その後、私は泳ぎのブランクがあったため今はバックしか泳げなくなったと自分の泳ぎを始めました。

 私が何回か往復しているうち、その男性が練習を止めたことに気づきました。少し休んでいると、その男性が帰り支度をして私のところに来てくれました。そして「バックで25メートル泳げました」とニコニコして帰って行ったのです。あの男性はもともと運動神経はすばらしかったのでしょう。それでバタ足を教えただけで、バックを25メートル泳げてしまったのです。私は、長いことボランティアをしていたので、お節介なところもあるけれど、こんなに嬉しい思いをしたことはない位嬉しさをおぼえました。そして今はこのような嬉しい気持ちになることが、病気を防止したり、認知症の防止になるといわれるようになり〔病は気から}の逆の{気は病を治す}理論が成り立つのではないかと思います。

 報道によると日本だけでなく世界的に人間関係が良い方向に取りにくくなって来ているそうです。私が前に申し上げた「人は言葉で解決できるところが動物と違う」が逆行している恐れが起きているということです。人間同士の争いは、言葉も文化もない動物と同じと蔑むべきです。誰かが、国をリードする人の力が、国民を無視したリードをして国民のすべてを犠牲にするのです。自然の破壊、災害が増えている現在、軍拡をやっている場合でしょうか。冷静な人間らしい尊厳を失わない思考を為政者たちは持つべきです。
 子どもから大人まで国民は、袖振り合う仲でもほんわかしたよい気分になるのを望んでいます。ましてや未開発国、原住民の方々はそんなことも知らず自然の脅威にさらされているのではないでしょうか。