公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の会長であった森喜朗が辞任して橋本聖子が新会長になったと。まさにオリンピックのために生まれ、オリンピックのために活躍したオリンピック娘が新会長になったと
評議員会で理事を選出して、理事会で会長を互選する。本来なら会長が辞任したら、理事会で理事の中から会長を選出すれば良いのだが、残りの理事の中では見渡しても会長に足る者がいなかったので、名誉会長の御手洗富士夫(キヤノン株式会社代表取締役会長兼社長CEO)に丸投げして、選考検討委員会を設けて、外部から会長候補を招聘した
森喜朗が「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかります」とか「女性っていうのは競争意識が強い。誰か一人が手をあげて言うと、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね。それでみんな発言されるんです」とか発言したと
JOCの評議員会ではその話を笑って聞き流したと。森喜朗としては女性を蔑視したよりも軽視したんだろうな。軽視が軽蔑と取られ、女性蔑視へと発展していったんだろうな。IOCも当初は軽く考えていたが、広告主、大きな収入源である商人から言われたら万事休すだな
女性蔑視の輪は五大陸を瞬く間に駆け巡った。丁度、日本の総理の息子が総務省の高官との会話が分からない筈であったが、文藝春秋の記者から録音を取られた。国会で逃げられなくなった。従来だと国会なぞは隠蔽改竄で逃げられたが、追い詰められた。あと一歩の詰めであろうが・・・
森喜朗は逃げられなかった。世の流れと共に、「時代遅れ」だと。女性蔑視は疑問がないが、時代遅れの発言は首を傾げる。女性軽視や素人軽視は今に始まったことではないな。昔から女性蔑視の流れはあった。女性蔑視反対を今の流行にしてはいけないんだな
平塚らいてうがいた。時ははるか昔の明治の時代である。明治44年(1911年)雑誌「青鞜」創刊の辞である。小林登美枝・米田佐代子編『平塚らいてう評論集』(岩波文庫)からの引用によると
元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった
今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である
さてここに「青鞜」は初声を上げた
現代の日本の女性の頭脳と手によって始めて出来た「青鞜」は初声を上げた
女性のなすことは今はただ嘲りの笑を招くばかりである
私はよく知っている、嘲りの笑の下に隠れたる或るものを
今から百年以上前に女性たちが産声をあげた。産声なんだな。それから現代までに幾多の時代を超えたが実態は何ら変わりがないな。返って女性蔑視や素人軽視は強くなっている感がするな
話変わって、日本語の名詞には男性名詞と女性名詞がない。名詞の性別が無い。しかし、西欧のフランス語やイタリア語では男性名詞と女性名詞があると。英語も古くは名詞の性別があったが、今はほぼ消滅していると。どうして、仏蘭西語や伊太利語で名詞の性別が出来たからよく分からないと。性別の蔑視でなく区分けのようなもののようだと。従って中性名詞もあると。しかしどうして男性と女性の性別をしたのか疑問である
そんな時代もあったねと 中島みゆきが歌った
あんな時代もあったねと まわるまわるよ時代は回る
今日は倒れた旅人たちも 生まれ変わって歩きだすよ と
長身の河島英五がいた
若くして肝臓疾患のため急死した河島英五がいた
自らが作詞作曲した「酒と泪と男と女」を歌った河島英五がいた
その河島英五が歌った歌に、阿久悠作詞、森田公一作曲の「時代おくれ」があった
一日二杯の酒を飲み さかなは特にこだわらず
マイクが来たなら 微笑んで 十八番を一つ歌うだけ
不器用だけれど しらけずに 一年一度酔っぱらう
目立たぬように はしゃがぬように
時代おくれの男になりたい
時代おくれの男 なんだな
時代遅れの女とは言わないな
男勝りとは言うが、女まさりとは言わないな
女々しいとは言うが、男々とは言わないな
映画の三大映画祭とは、カンヌ国際映画祭とベリリン国際映画祭とヴェネツィア国際映画祭だと。映画祭とは映画に接している者、映画に関して玄人が選定すると。「千と千尋の神隠し」はアニメーションだが、ベリリン国際映画祭で金熊賞を受賞したと
「鬼滅の刃」は興行収入で「千と千尋の神隠し」を抜いたと。素人の見立てでは「鬼滅の刃」を評価しているんだな。良いと見ているのであろうな。しかし、玄人の見方はどうであろうかな。一度映画祭に出品してみたらどうかな
世論調査は色々やっている。オリンピックの開催とか政権の支持率とか様々やっているが、意外とどういうやり方をやっているか分からないが、世評の噂では当たっていると。分からんな
評議員会で理事を選出して、理事会で会長を互選する。本来なら会長が辞任したら、理事会で理事の中から会長を選出すれば良いのだが、残りの理事の中では見渡しても会長に足る者がいなかったので、名誉会長の御手洗富士夫(キヤノン株式会社代表取締役会長兼社長CEO)に丸投げして、選考検討委員会を設けて、外部から会長候補を招聘した
森喜朗が「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかります」とか「女性っていうのは競争意識が強い。誰か一人が手をあげて言うと、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね。それでみんな発言されるんです」とか発言したと
JOCの評議員会ではその話を笑って聞き流したと。森喜朗としては女性を蔑視したよりも軽視したんだろうな。軽視が軽蔑と取られ、女性蔑視へと発展していったんだろうな。IOCも当初は軽く考えていたが、広告主、大きな収入源である商人から言われたら万事休すだな
女性蔑視の輪は五大陸を瞬く間に駆け巡った。丁度、日本の総理の息子が総務省の高官との会話が分からない筈であったが、文藝春秋の記者から録音を取られた。国会で逃げられなくなった。従来だと国会なぞは隠蔽改竄で逃げられたが、追い詰められた。あと一歩の詰めであろうが・・・
森喜朗は逃げられなかった。世の流れと共に、「時代遅れ」だと。女性蔑視は疑問がないが、時代遅れの発言は首を傾げる。女性軽視や素人軽視は今に始まったことではないな。昔から女性蔑視の流れはあった。女性蔑視反対を今の流行にしてはいけないんだな
平塚らいてうがいた。時ははるか昔の明治の時代である。明治44年(1911年)雑誌「青鞜」創刊の辞である。小林登美枝・米田佐代子編『平塚らいてう評論集』(岩波文庫)からの引用によると
元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった
今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である
さてここに「青鞜」は初声を上げた
現代の日本の女性の頭脳と手によって始めて出来た「青鞜」は初声を上げた
女性のなすことは今はただ嘲りの笑を招くばかりである
私はよく知っている、嘲りの笑の下に隠れたる或るものを
今から百年以上前に女性たちが産声をあげた。産声なんだな。それから現代までに幾多の時代を超えたが実態は何ら変わりがないな。返って女性蔑視や素人軽視は強くなっている感がするな
話変わって、日本語の名詞には男性名詞と女性名詞がない。名詞の性別が無い。しかし、西欧のフランス語やイタリア語では男性名詞と女性名詞があると。英語も古くは名詞の性別があったが、今はほぼ消滅していると。どうして、仏蘭西語や伊太利語で名詞の性別が出来たからよく分からないと。性別の蔑視でなく区分けのようなもののようだと。従って中性名詞もあると。しかしどうして男性と女性の性別をしたのか疑問である
そんな時代もあったねと 中島みゆきが歌った
あんな時代もあったねと まわるまわるよ時代は回る
今日は倒れた旅人たちも 生まれ変わって歩きだすよ と
長身の河島英五がいた
若くして肝臓疾患のため急死した河島英五がいた
自らが作詞作曲した「酒と泪と男と女」を歌った河島英五がいた
その河島英五が歌った歌に、阿久悠作詞、森田公一作曲の「時代おくれ」があった
一日二杯の酒を飲み さかなは特にこだわらず
マイクが来たなら 微笑んで 十八番を一つ歌うだけ
不器用だけれど しらけずに 一年一度酔っぱらう
目立たぬように はしゃがぬように
時代おくれの男になりたい
時代おくれの男 なんだな
時代遅れの女とは言わないな
男勝りとは言うが、女まさりとは言わないな
女々しいとは言うが、男々とは言わないな
映画の三大映画祭とは、カンヌ国際映画祭とベリリン国際映画祭とヴェネツィア国際映画祭だと。映画祭とは映画に接している者、映画に関して玄人が選定すると。「千と千尋の神隠し」はアニメーションだが、ベリリン国際映画祭で金熊賞を受賞したと
「鬼滅の刃」は興行収入で「千と千尋の神隠し」を抜いたと。素人の見立てでは「鬼滅の刃」を評価しているんだな。良いと見ているのであろうな。しかし、玄人の見方はどうであろうかな。一度映画祭に出品してみたらどうかな
世論調査は色々やっている。オリンピックの開催とか政権の支持率とか様々やっているが、意外とどういうやり方をやっているか分からないが、世評の噂では当たっていると。分からんな