身近な自然となかよくblog (旧「菊名エコクラブblog」)

自然環境と調和した持続可能な社会を!

都市に住む現代人であっても地球への敬意を大切に。 松田 照之

町なかのビオトープ篠原池

2018年03月17日 11時03分09秒 | 2-5.篠原池
自動車や人々が行き交う道路沿いに、アオサギやコサギが飛来し、バン(ツル目クイナ科の水鳥)が一年中生息している。
これが、町なかのビオトープ(生物生息環境・生息場所)篠原池です。

篠原池には横浜では昔からクチボソと呼ばれて親しまれてきた小魚やハゼの仲間のトウヨシノボリ、ヌマエビやスジエビなどの小型のエビが生息しています。
また水際にはアシやガマの茂みとともに草っぱらがあり、初夏にはキイトトンボという黄色い綺麗な色をしたイトトンボの成虫が多数見られます。

このように色々な野生の生きものたちが関わり合いながら生息している場所、環境のことをビオトープといいます。
決して、一から人の手で作った小さな池のことを言うわけではありません。
ビオトープは、生きものたちが生きていくために必要不可欠な、とても大切な場所です。
ですから生きものたち(野生の在来種)を滅ぼしてしまわないようにするためにも、本来の意味、あり方から離れたものを作ったり(創出型ビオトープ)、保全の仕方をするのはよろしくないと思います。

町で生活する私たちが、こうした町なかの自然環境と共存するということ。それは、こうした生きものたちや生息環境をむやみに気味悪がったり汚がったりせずに、むしろ町にあることいることを歓迎し、大切にしていくことだと考えます。




追記・・・

写真は今年3月の篠原池です。
水生植物の緑の色をした新芽が綺麗ですが、昨年の枯れた部分がたくさん残っています。
こうした枯草の茂みを汚ならしいという見方もできます。
町にこんな汚らしいものを残しておくのは良くないのではないかという人もいらっしゃるでしょう。

でも、この枯草の茂みも、冬の間水鳥たちが過ごすために大切なものなのです。
野外なのですから、元々こうした環境があって当たり前です。

「汚らしくは確かに見えますね。だけど、これも生きものたちにとっては大切な環境なんですよ。」
こうお話して納得してくださることが、生きものたちに対する優しい眼差しと自然を大切にする思いを持つということなのです。
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私の大好きな春の花(1)

2018年03月17日 10時46分34秒 | その他
春の花はサクラだけではないのです。
寒くて過ごしにくかった冬が過ぎ、春の到来を告げるように花を咲かす植物を春植物といいます。
みな、魅力のある花ばかりです。

サクラだけを愛し、その他の植物を雑草扱いしかしないのは、私はとても淋しいことだと思います。
サクラだけというのは決して自然環境ではありません。
花木だけということにしても同じです。
自然環境というのは生きものたちの集合体であり、それらが関わりあったものだからです。

春になると春植物が花を咲かせるだけでなく、昆虫やカエルたちも活動を始めます。
わたしたち人間と同じように、春を待ち望んでいた生きものたちが一斉に動き出す時期、春植物をはじめ、いろいろな生きものたちの活動から春を感じたいものです。

写真は私の大好きな春の花の一つ、ウグイスカグラです。




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自然環境とは何か

2018年03月16日 10時52分04秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと
そもそも自然環境とは何なのでしょう。
一言で言うとしたら、自然の生きものたちの集合体です。
もう少し詳しく言うと、色々な生きものたちのそれぞれの営みが繋がりあって成り立っている一まとまりの場所で、それはその土地の地理的な成り立ちと深く関わっているものです。

自然の生きものたち、言い換えると野生の生きものたちは、人間がエサや肥料を与えたりと世話をしなくても、他の生きものたちと繋がりを持って自力で生きています。
このことが自然環境においては非常に重要です。
私が自然が大切だというのは、これらの繋がりこそが自然の生産力、循環力、さらには復元力・再生力となっていて、人間もその恩恵を受けているからです。

具体的な自然環境としては前にも挙げたとおりです。
たとえば、小川には流水性の小魚や水生植物の生育・生息環境となっていますし、池は止水性の水生植物やトンボやカエルたち生育・生息環境に、雑木林は様々な樹木や草花の生育環境となっているとともに、カナブンやルリタテハなどの昆虫たちの生息環境となっています。また草っぱらはイネ科植物の生育場所となっているとともにそこがバッタやイトトンボの成虫の生息場所となります。
このように地面や水底が植物の生育する基盤となり、そうしてできた森林や草地には、それぞれ森林性の鳥類や昆虫類、草地性の鳥類や昆虫類が生息したり飛来したりします。

私たちの町に残されていた小川や池、雑木林や草っぱらこそが、断片的ではありますが、それぞれ自然環境なのです。
これらも元々は断片的ではなく繋がっていました。
里山と呼ばれる一まとまりの大きな、人と自然とが共存する場所だったのです。
人に生息環境という言葉を用いるのはおかしいかもしれませんが、この里山こそが私たち日本人元来の生息環境のようなものと言っても決して過言ではないと思います。
山にある森からは木材や燃料や山菜などを採取し、山の裾野や谷の小川沿いには池や田畑を作って食物を得ていました。
このように自給自足の生活をしていた里山こそが、日本人元来の生活圏・生活環境であったことに間違いありません。
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悪者扱いということについて

2018年03月16日 10時33分26秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと
「悪者扱い」ということについて一つ大事なことを言い忘れていました。
僕は自分が悪者扱いされていると感じる時がしばしはあります。
ここ最近もそうでした。
しかしながら僕は生きものを嫌いな人を「悪者扱い」しているわけではありません。
好き嫌い。そこまでは人の自由だからです。

虫は気持ち悪い。草の茂みは汚らしい。そのように感じる人がいらっしゃることについては、ちょっと寂しいなとは思いますが、それまでの話です。
しかし、ここから先が問題。近所の公園にカエルが生息していて気持ち悪いから駆除してくれとか、同様に草の茂みが汚らしいから防除してくれなどと管理者等に訴えるところまでしてしまうことが問題だと思うのです。
ここまでしたら、僕もそれは違うんじゃないの?となります。
なぜならそれらは野外に普通に存在するものだからです。
普通にあるものを認められなくなってしまっている社会の風潮に、僕は問題を感じます。


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町(都市・市街地)では悪いこと扱い?

2018年03月15日 10時25分28秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと
町(都市・市街地)にも身近な自然を残したり回復させたりして、大切にしていく必要がある。
このように訴えると丸で悪いことをしているかのように扱われることがあります。
冷たい態度を取られたり、突っぱねられたり、みんながこう言っているのになんでお前だけ違うことを言うんだ?・・・という感じを受けます。
町(都市・市街地)では自然を徹底的に排除し、綺麗に整然とした街並みに整備していくことが、正義となっているような状況もあるのでしょう。

しかし、本当にそうだとしたら環境問題なんて提起されないはずなのです。
いったい何が原因で環境問題となっているのか、考えていくと、やはり人間が悪いのです。
このように言うと、人間の存在を否定していることになると言われるのですが、そうではありません。

オゾン層の破壊や地球温暖化の原因として言われていること。それは人間自身が悪いというよりも、私たちの暮らし方が悪いということができます。
生物多種多様性の破壊ということも地球規模の大きな環境問題として取り上げられていますが、それもまた私たち人間自身が悪いというより、水と緑の生命の星、地球の生命たちを滅ぼし、その生息環境を壊しているという暮らし方が、問題となっているのです。

それはどこか遠い国だけで起こっていることではありませんし、国内のどこかの地方だけで起こっていることでもありません。
それは地球上の至るところで起こっていて、私たちの住む町も例外ではありません。
町(都市・市街地)には自然はいらない。
自然の生きものたちなんて気持ち悪いだけだし、そんな生きものたちの生息環境なんて汚らしいだけ。
こうした見方が反映されることによって、元々あった生きものたちの生息環境が破壊され、生きものたちを滅ぼしているということをみんなに気づいてほしいと思います。
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里山・農村から都市化・市街地化への過程で

2018年03月14日 09時55分04秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと
今は町(都市、市街地)になっていても、そこも元々は山林だったり農村だったりしたはずです。
なぜなら木を伐り山を切り崩し、田畑を埋め立てたりして、都市化、市街地化が進められてきたからです。

私の住む町、菊名(横浜市港北区)もまた同じです。
今でも一部が残っていますが、昔は菊名池という大きな池(農業用のため池)があり、そこから川(農業用水路)が流れていました。
周辺や下流部の田畑を潤す、この池と川を軸とするようにして菊名は成り立っていました。
川には水車小屋があり、丘には秋になるとリンドウの咲く、のどかな里山、農村だったと聞いています。

都市化、市街地化が何十年にも渡って進められてきて現在に至るように、里山が次第に市街地化されていくのです。
「ここは町だから自然が残っていてはいけない。綺麗にしなくてはいけない。」という言葉を時折耳にしますが、元々里山、農村であったにも関わらず、そこまで徹底して自然を排除しようとすることに疑問を感じます。
反対に、町で自然が少なくなっているから残していく必要があるということも言えます。

繰り返しになりますが、何より自然の営みと私たちとの繋がりとを体験を持って何度でも再認識できる場所としても、身近な自然は私たちの生活圏の中に必要だと考えるのです。
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伝えていくことの大切さ

2018年03月14日 05時20分16秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと
町に住む私たちがすっかり忘れてしまい、振り返えろうともしなくなってしまったこと。
それは自然の営みに対する畏敬(驚きと敬い)の念と、自然の恵みへの感謝、そして、そこに生きる限りある生命を持った生きものたちへの優しい眼差しです。
前回の文書の最後、このように綴って締めくくりました。

こうした感性や考え、見方を持つことは、お年寄りや子供を大切にしよう、両親を敬おうというのと同じくらいに、人としての基本的なことではないかと考えています。
私の経験でいうと、昭和40年代から平成の初期にかけては、このような感性、考え、見方を持つ大人たち、お年寄りが確かにいらっしゃいました。
私の両親もまた、そうした年配者の一人でした。
今はもう宅地になってしまいましたが、近所に湧き水(滲出水)の残る場所がありました。春から秋にはスギナやセリなどが緑に茂り、たまり水にはトンボが飛び交いながらキラキラ光る水面に産卵している様子がよく見られました。
母はここが「これからも残っていればいいなぁって思いながら、いつも見てるのよ。」と言っていました。

自然や生命ある自然の生きものたちに対するこうした思いは、本人の経験から生まれるものでもあるでしょうけれど、その一方で、親の代から子供の代へと伝えていくことも重要なのではないかと考えます。
私は㈶法人日本自然保護協会認定の自然観察指導員として、自然観察会などをとおして、こうしたことをお伝えてきましたが、やはりこのような活動は大切だと改めて思うのです。

しかしながら、以前よりも都市化、市街地化に拍車がかかり、以前よりも厳しい状況になってきていることは確かです。
勉強をし直すなどして自分を高めるとともに、これまでのやり方にプラスして、何か新しいやり方、活動を生み出す必要があるのではないかと感じています。
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大きな木を1本切り倒すのは高層ビルを1棟壊すようなもの

2018年03月13日 15時03分56秒 | 篠原園地
最近、大きな木が、近所の至るところで切り倒されるのを見て、僕は心を傷めています。
これらの大きな木は昔から生えていて、親しみのあるものだったからということが一番なのですが、他にも理由はあります。

まず、大きな木は大径木といって、開発行為等の際の保護対象となるということがあります。

二つ目・・・大きな木は小さな木や草花と比べて、葉の量がちがいます。
大きな木が1本あるだけで、それだけ大きな木陰をつくってくれます。
環境問題としてヒートアイランドが指摘される中、木陰をつくってくれる大きな木はありがたいものです。

三つ目・・・大きな木にはその梢に野鳥たちがやってきます。
小鳥たちもこの緑陰に身を隠したり休んでいたりするのでしょう。
巣を作って子育てする場合もあるでしょう。
枝で何かエサをついばんだりもします。
エサはその木の実かもしれませんが、そればかりではありません。
枝の幹や葉についた虫をエサにしているのです。

四つ目・・・つまり野鳥ばかりでなく、野鳥のエサとなるような虫たちも樹木を利用しているのです。

大きな木は、大きな木陰をつくって直射日光を遮り、初夏から秋の強い日差しを和らげてくれます。
そして野鳥から昆虫まで、いろいろな生きものたちが利用しているということなのです。

大きな木を1本切り倒すのは、高層ビルを1棟壊すようなものです。
ただ木が切り倒されるというだけでなく、その木を利用していた様々な生きものたちも利用できなくなってしまうということなのです。
その中には新しい居場所を見つけられずに死に絶えてしまうものもいるでしょう。

確かに森林の更新というのは、必要な場合もあるかもしれません。
でも、小さな木がこの大きな木の代わりを果たせるようになるには、一体何十年かかるのでしょうか・・・。
だから森林に関しては、一度に広範囲に、またたくさんの木を切り倒さないでほしいと思います。




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町に自然(身近な自然)は必要ないか

2018年03月13日 14時50分04秒 | 6-2.思ったこと・考えたこと
自然は元々、小川や池、雑木林や草っぱらなど、町なかの色々なところにもありました。
小川には在来種の小魚や水草、池にはアシ原やトンボやカエルたちが、雑木林には様々な高さや種類の木々や草花のほか、カナブンやルリタテハなどの昆虫たちが、また草っぱらにはバッタやイトトンボなどが見られたものです。
しかし都市化、市街地化がさらに進んで行くにつれて、こうした身近な自然や生きものたちは姿を消していきました。
そして人々は、町の便利さや人工的なものの方を大切にするようになり、身近にある人工的でないもの、自然やその中に棲む生命ある生きものたちに関心を示さなくなったどころか、嫌うようにさえなっていったのです。

それでは、このようになったからといって町(都市、市街地)に、それまで当たり前に見られていたような自然(身近な自然)は、もう必要ないのでしょうか。
多くの人が町に自然はいらないと答えるでしょう。
実際に、そういう言葉を何度も耳にしていますし、多数あるいは目立つと思われるこうした声が反映されてきたこともあって、町なかから自然がなくなってきているということがうかがえます。
しかし、いるか、いらないかという二者択一にするのはおかしく、そこまでして徹底的に町なかから自然を排除してしまうのは、いかがなものかと考えます。

便利で華やかな町の生活で、私たちがなかなか認識しづらくなってしまった、でも、とても大切なこと。
それは、私たち人間も地球上の生命の一員であり、自然環境なくしては生きられないということです。
水、空気、気候・天候、食物、薬草、物の材料、景色、昔からの慣習、文化など、自然は私たち人間か生存し、生活していく上で、あらゆる基盤となってきました。
それは、これからも変わることはありません。
そのことは町に住む私たちも忘れてはならないことで、こうした自然の営みと私たちとの繋がりとを体験を持って何度でも再認識できる場所としても、身近な自然は私たちの生活圏の中に必要だと考えます。

町(都市、市街地)は便利ですが、それだけでは成り立つことはできません。
近隣の県の山林や田畑から水や農作物が運ばれてくるから、成り立つことができるのです。
そして、自然の中に棲む生きものたちも同じように、こうした自然の恵みを受けて生きているということも一緒に覚えておきたいことです。
もし身近に山林や田畑、その他の身近な自然が残っているとしたら、それが町なかであっても大切にしなければいけないと思います。
町に住む私たちがすっかり忘れてしまい、振り返えろうともしなくなってしまったこと。
それは自然の営みに対する畏敬の念と、自然の恵みへの感謝、そして、そこに生きる限りある生命を持った生きものたちへの優しい眼差しです。
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