北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

民家の「中門造り」その1

2015-01-05 19:11:05 | 日記
いままで「中門」についてふれてきたのは、寝殿造り、書院造、などでしたが、では

一般庶民の家、つまり「民家」の場合はどうなのでしょうか?


1952年、岩波写真文庫「日本の民家」、表紙のうらの図表です。




上から二番目の



で示された範囲のうち、太平洋側の岩手県の民家は「南部曲り屋」、日本海側の新潟県の

一部、山形県、秋田県の民家は「中門造り」と呼ばれていたと思います。次のような、

間取りと外観です。






出っ張っているところに、正面に入り口、馬厩があるのが特徴のようです。(「南部曲り

屋」は、馬厩があるのは同じなのですが、入り隅に入り口がある事で区別されているよう

です。) ですが、「中門造り」と呼ばれて同じ「中門」とは言え、光浄院客殿の「中門」

とは、「出っ張っている」形状が似ているだけで、「門付け」と関連した「中門」本来の

意味合いと、何かしらの関連があるとは、私には思えません。18世紀までさかのぼる民家

とすれば、日本海側ですし、北前船などの交易に伴う、大工さんなどの移動、または普通

の人々の見聞による言葉の伝播なのかな?くらいしか思いつきません、、、。


ところが、事は、これだけでは終わらなかったのです、、、。


民家の「中門造り」その2 に続く、、、。






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『産屋』の補足

2015-01-05 14:02:43 | 日記
このブログの最初の方の記事の「産屋」の補足です。

少し長くなりますが、網野善彦さんの「歴史を考えるヒント」(新潮選書2001年)より引用

します。


  しかし、日本列島に関しては、ケガレへの対処の仕方に列島東部と西部とで

  違いがあったことを明らかにした研究が行われています。それは考古学及び

  民俗学の専門家である愛知大学の木下忠氏の『埋甕』(雄山閣、1981年)に収

  められた論文で、産穢への対処を、「胞衣(えな)」(胎盤)の扱い方によって

  二つのタイプに分類しています。

  一つは、縄文時代から見られるやり方で、胞衣を竪穴式住居の入口の地面に

  埋めてしまいます。子供が赤子のうちに死んでしまった場合も同じ扱いをし

  ていたようですが、現在でも、胞衣をなるべく人が踏むことの多い場所に埋

  める習俗があります。戸口や、道が交差している辻にわざわざ持って行って

  埋めることまで行われています。こうした地域では、人に踏まれれば踏まれ

  るほど、赤ん坊が元気に育つという考え方があったと言われています。

  これに対して、住居から離れた場所に「産室」を設け、「産屋」を建て、そ

  の床下を深く掘って胞衣を埋めるというやり方をしている地域があります。

  とにかく、胞衣をなるべく遠くへ持って行って埋めることが重要であり、例

  えば室町時代の将軍家の場合は山中に埋めに行かせたりしています。

  木下氏はこの二つのやり方のうち、前者を縄文的、後者を弥生的と呼んでお

  り、前者はケガレに対して神経質ではなく、むしろおおらかであり、後者は

  敏感でケガレを忌避する傾向が強いと捉えておられます。



私の家族は、両親共に東北の出身なのですが、実家には私の生まれた時の「臍の緒」が

まだ、桐の小箱に入れてとってありますし、水上勉さんの小説に『桑の子』と言うのがあ

ったと思いますが(たしか群馬県の話、、、)、一体どうなっているんでしょうか? この

ブログの「追記の添付写真」の白黒の産屋の内部写真の「幣(ぬさ)」の地面の下には胎盤

が埋まっているのでしょうか?






レオナルド・ダ・ヴィンチの『聖アンナと聖母子』(ルーブル美術館)です。




聖アンナ(マリア様のお母さん)の足元(両の素足の間?)に、例の「臓物のようにも見え

る石ころ」があるはずなのですが、私にはコンピューターで拡大しても良く判りません。

「津軽 馬鹿塗り」の模様のように見えなくもない「石ころ」が確かにあるにはあるので

すが、それが血管もあって、臓物どころか「胎盤」まして「胎児」の一部かどうかなど、

とうてい判別出来るものではありません。(ルーブル美術館の修復作業は、どうなって

しまったんでしょうか? この絵についての「てんやわんや」は、林達夫著作集の第一巻

「芸術へのチチェローネ」を御覧下さい、、、。)



レオナルド・ダ・ヴィンチの「胎児」のスケッチです。



同じ16世紀初頭の頃、極東の島国では、「産屋」に「幣」を立てていたかも知れないので

す、、。そして、それは私達の、祖父祖母、曽祖父曾祖母の時代にも行われていたかも知

れないのです。つい、この間のことです、、、。(でも、それは日本人の日本人たる所以

、日本人の良いところなのかも知れないのですけれども、、、。)



追記  水上勉さんの小説『桑の子』は、上州の養蚕農家の桑畑の桑の木の根元に、生ま

    れたばかりの赤ん坊を「間引き」の為に埋めて、それでも這い上がって(土中か

    ら自力で脱出した)来た赤ん坊は、見込みがあるから育てるけど、その赤ん坊が

    後々、水上勉さんの『雁の寺』みたいに復讐劇を始めると言う様な、怖い話だっ

    たと思います。「間引き」の慣習は、日本人の物の感じ方や発想に相当な影響を

    及ぼして来たんでしょうね。キリスト教は「間引き」禁止のはずですし、、、。 












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富貴寺

2015-01-05 05:02:08 | 日記
お正月で、おめでたついでに、なんとなく名前がよいので、、、


国東半島の富貴寺です。













似たような建物に、いわき市郊外の白水阿弥陀堂があります。










こちらは年代が特定されているようで、1160年のようです。富貴寺も、おそらく同じ頃と

おもわれます。(つまり、どちらも中世、平安時代の終わり頃。大分県と福島県で随分と

離れているんですけど、、、。)




実はこの両者では、僕は圧倒的に富貴寺が好きです。(いわき市の皆さんゴメンナサイ。

でも僕は設計士ですから仕方がないんです、、、。でも、白水阿弥陀堂は東北地方の福島

の、それも「浜通り」にあるだけでも、すばらしいんです。本当に凄い事なんです。)


富貴寺には「貴高さ」さえあります。


こんな建築はめずらしいです。近くに寄って、実際に見ていただくしかありません。確か

に、屋根の葺材の違いはあるにせよ、同じような形式・規模なのに、どうしてこのような

違いになったのでしょうか? 不思議でなりません、、、。


都から、遠く離れた「地方」で、一体、どのような大工集団が、これを作ったのでしょう

か? 近畿から、わざわざ来た大工でしょうか?「渡り大工」(そんな言葉があるのか知ら

ん?)の技術者集団でしょうか? それとも、ずっと国東半島にいて、九州から出たこともな

い大工さん達だったんでしょうか? 棟梁一人がどこからか来て、あとは地元の大工さん達

だけで、こんな事が起こったりするんでしょうか? 



富貴寺は、主要な柱に丸太の面(ツラ)の残っている柱が何本もあったように思います。

まるで、数奇屋のお堂なのです。地方で、財政が十分でなかったのかも知れませんが、

地元の材料で工夫して、それを跳ね返すかの如く、大工さんの技量が素晴らしいのです。

そして、「貴高さ」の高みにまで、達してしまっているように、私には見えました、、。


予算が潤沢にあって、いくら良い材料を使ったとしても、設計と大工さんが良くなければ

良い建物にならないのは、昔も今も同じではないでしょうか? (むしろ、ものを作る気持

ちがこもっていれば、材料は少しくらい良くなくてもいいくらいです、、、。)


瀬戸内海には重源も「勧進普請」に何度も来ていたようです。もともと「和船」の船大工

の高い技術があったのでしょうか?


函館の金森倉庫は、その外観が「居酒屋兆冶」などで有名ですが、



実は、内部はこうなっているんです。



柱と梁が木の根元の「あて木」を使って「木造ラーメン(柱梁一体構造)」になっているの

が判りますか?(「あて木」とは、山の北側の斜面の木の根元の部分などで、もともと曲が

って成長した部分の木のことです。) おそらく、この金森倉庫の棟梁は「和船」の船大

工の技術を判っていて、最小の材料で最大の空間を経済的に作る為に(しかも丈夫に、構

造計算も構造基準も無い時代に、経験と洞察で、、、)、工事の最初の段階で「あて木」

を手配して(普通は「あて木」なんて流通していません。山の中で探し出すしかないはず

なんです。)、段取りを組んだのだと思います。凄い大工さんです、、。



金森倉庫の内部は、現在その一部が、「金森ホール」と言う音楽ホールになっています。


(金森倉庫は、十勝沖地震でも、奥尻沖地震でも、構造的には致命的な被害は受けていな

いはずです。地盤もそれほど良い場所ではないはずですが、、、。杭も無い時代に、地盤

の補強などの地業はどう工夫してあったのでしょうか? 両地震で、被害を受けた昭和の

近代建築は、函館でも江差でも、いくつかはあったのですが、、、。構造計算が当時の

基準で適法に行われたと役所が確認した近代建築のはずなんですけど、、、。)






追記  Youtube見つけました。








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