京都大学で増田友也さんのお弟子さんだったのですが、残念ながら46歳の若さでなくなった、
玉腰芳夫さんの『古代日本のすまい』という本の、
序章 5 ページの左上の『宇治上神社拝殿』の写真の キャプション に
図2 宇治上神社拝殿( 鎌倉初)ー寝殿造り住宅を彷彿させる数少ない遺構の一つ。
とありますが、どうやら、この拝殿は、寝殿造りの中でも、このブログ中でも何度か触れた
『中門』もしくは『中門廊』を、どこからか 移築して拝殿として転用した建物のようなのです。
これは、藤原定家(1162~1242年 )の藤原定家第で、やはり中門廊のある寝殿造りなのですが、
『明月記』などによると、当時の京都の裕福な貴族のあいだでは、今の京都市内の本宅とは別に、
宇治に別荘というか別宅を構えるのが流行っていたらしく、もしかしたら鎌倉時代になって没落
した貴族たちの中には、宇治の別宅を維持するのが経済的に困難になったからなのか、もしくは
武士階級などの『世俗的世界の台頭』による『宗教的世界の変質』によって、『中門』もしくは
『中門廊』も不要になり、宇治上神社などの神社に、その解体部材を『寄進』したのかも知れま
せん。(『寄進』するために、わざわざ 解体する人は、今も昔も、そんなにはいないのでは ? )
よく見ると『宇治上神社拝殿』は左右対称ではなくて、、、
水間徹雄さんの指摘のように、赤枠の左の部分が半間分が長いのです。
『水間徹雄・建築巡礼の旅』さん https://mizumakjt.exblog.jp/24881677/ より
時代は、かなり下がるのですが、足利義教(1394~1441年 )の将軍邸の平面図
この平面図の『 中門北廊』の部分を拡大して、、、
90°回転させて、さらに拡大してみると、他は一間なのに、左端だけは一間半で、、、
あら不思議!『宇治上神社拝殿』の平面図と、だいたい重なりませんか、、、 ? (梁間は違うけど、、、)
平安後期から鎌倉前期の宇治の周辺に、足利義教将軍邸のような規模の別宅を構えていた
貴族がいたとしたら、おそらく相当な地位の貴族だったのではないでしょうか ?
でも、どうして足利義教さんは、300年も後の15世紀の室町時代に、こんな古臭い寝殿造りの
将軍邸をわざわざ造ったんでしょうね、、、?
宇治上神社拝殿と関西電力宇治発電所 その3 につづく