北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

「さんまい谷」その1

2015-12-17 18:55:36 | 日記
「さんまい谷」の「さんまい」は「三昧」と書くのでしょうか? 仏教用語のようです、、、。


水上勉さんの「生きるということ」(講談社現代新書299)より、、、



  粗末な木の橋のこと


  小さい頃、母はよく、谷の奥に私をつれていって、蓑(みの)一枚ぐらいしかない小

 さな田の畦(あぜ)にすわらせ、自分は胸までつかる汁田(しるた)で苗を植えていた。

 この谷は暗くて、一日に陽が三時間ほどしか射さなかった。村でもきわめて貧しい谷

 であった。そんな谷の口に私たちの家があった。谷には畑もあった。そこで、母は芋

 や大根をつくった。ここへゆくのに、深い川が一つあった。木橋がかかっていたが、

 大水のたびによく流失したので、母はよく橋普請(はしぶしん)した。自分だけの働く

 谷だから、村の衆にたのめる工事ではない。宮大工の父がその日はかならずどこから

 か帰ってきて、山から丸太を二本伐(き)ってきて、せまい川にさしわたし、その上へ

 栗材のコロをならべて、流土を積むと、私たち兄弟にも踏ませて赤土の固い土橋にし

 た。一年ほどすると土橋は古ぼけてわきに草が生え、草の下に、神社の軒タルキを

 みるような、栗材の切口が白くならんだ。また、これが古くなると、栗材はくさって、

 橋の裏には椎茸がいっぱいできた。母はこれを穫って私たちの弁当のサイにしてくれ

 た。母は、自分一家の収穫のために谷田にわたされた橋を、その生涯に何ど架けただ

 ろう。若狭はずいぶん台風のすぎる土地だから、おそらく十回ぐらいは架けたと思う

 。いつ架けても、この橋は丸木の切り口の上に土のもられた、椎茸のみのる橋であっ

 た。


  私は、九歳でこの母に別れた。



水上勉さんの在所は、福井県若狭本郷の岡田集落です。この文章の中の「村でもきわめて

貧しい谷」のことを、水上勉さんは「さんまい谷」とも書いているのですが、集落からは離

れているようなのですが、私は現地では確認できませんでした。



調べてみましたら、関西電力のウェブサイトに、小さいのですが、生家の跡の写真を見つ

けました。(200%に拡大したので少しボケます。)







 中央の平地が生家の跡だそうですが、「そんな谷の口に私たちの家があった。」とある、

「さんまい谷」の入り口の感じは、この写真からは判りません、、、。(日当たりも良さそ

うですし、、、。)



岡田集落です。





岡田集落の南のはずれ(岡田集落から見て若狭湾の反対側)にある水上勉さんの記念館

「若州一滴文庫」





               
                   「さんまい谷」その2 につづきます、、、。

  
追記  どこが『さんまい谷』なんでしょうか?




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