本線に戻ります。宗教世界の衰退に伴って、門付け儀礼(近世以降の門付け芸ではなく、
神人?などによる儀礼としての門付け)の行われる場所(舞台?)としての中門が、どのよう
に変遷したかについて、何とか説明してみようと思うのですが、その前に、、、
このブログの最初の方の、京都府綾部の「産屋」について触れた文章で、次のように書い
たのですが、
産屋と書いて「うぶや」と読むようです。待屋とも対屋とも書くようです。
(読みはどちらとも「たいや」のようです。)京都府の綾部に遺構が今でも
残っています。
これを教えてくれたのは、瀬川清子さんの『女の民俗誌●そのけがれと神秘』(東京選書)
です。途中に漢文があるので、そのまま載せてみます、、、(34ページから35ページ)
瀬川清子さんは、「寝殿造りの対屋と忌屋のタヤと何かのつながりがあるのではないか
と思う。」と書いています。もう一度、東三条殿の図を見てみます。
「東中門」から「東中門廊」を抜けて、さらに進むと「東対」とありますが、これは東の
「対屋」と考えます。これはいったい何の部屋?(建物?)なのでしょうか?何かしら女性に
関係のある部屋?(建物?)としても、どうしてこの位置なのでしょうか?(ここで出産したの
でしょうか?ここで出産したのでなければ、どこで出産したのでしょうか?)
私は高校3年のとき男女を通じて古文で最低点を取り、担任の中石孝先生(現代国語の先
生でした。)に職員室に呼ばれました。(漢文も推して知るべしです、、、。)古文や漢文
の勉強は大事だなと思い知らされております、、、。(現役高校生の皆さん、大学受験に
必要な科目だけ勉強するなんて、そんな勉強はよしましょう!)
瀬川清子さんは秋田県鹿角市出身で、学校の先生をしながら柳田国男さんの民俗研究に
参加された方です。秋田県にはもうお一人、折口信夫さんのただ一人の女性の弟子の、
男鹿市舩川出身の穂積 生萩(ほづみ なまはぎ、澤木数枝 )さんもいらっしゃいます。
舩川は折口信夫最北端の地です。
瀬川清子さんの『女の民俗誌●そのけがれと神秘』(東京選書、東京書籍)は当時900円で
した。どうぞ、お買い求め下さい。
追記 この「待屋(たいのや)」を見て、京都山崎妙喜庵の茶室「待庵」を思い起こしま
した。この文章を読むまでは「人を待つ」から「待庵」なのかな?くらいにしか考えてな
かったのですが、利休は「産屋」の「待屋」から「待」の字をとって「待庵」にしたので
はないでしょうか?人は誰でも(世俗の武人だろうが)生まれたときは、赤ん坊だったのだ
よ、と言う利休のアイロニーなのではないでしょうか?
神人?などによる儀礼としての門付け)の行われる場所(舞台?)としての中門が、どのよう
に変遷したかについて、何とか説明してみようと思うのですが、その前に、、、
このブログの最初の方の、京都府綾部の「産屋」について触れた文章で、次のように書い
たのですが、
産屋と書いて「うぶや」と読むようです。待屋とも対屋とも書くようです。
(読みはどちらとも「たいや」のようです。)京都府の綾部に遺構が今でも
残っています。
これを教えてくれたのは、瀬川清子さんの『女の民俗誌●そのけがれと神秘』(東京選書)
です。途中に漢文があるので、そのまま載せてみます、、、(34ページから35ページ)
瀬川清子さんは、「寝殿造りの対屋と忌屋のタヤと何かのつながりがあるのではないか
と思う。」と書いています。もう一度、東三条殿の図を見てみます。
「東中門」から「東中門廊」を抜けて、さらに進むと「東対」とありますが、これは東の
「対屋」と考えます。これはいったい何の部屋?(建物?)なのでしょうか?何かしら女性に
関係のある部屋?(建物?)としても、どうしてこの位置なのでしょうか?(ここで出産したの
でしょうか?ここで出産したのでなければ、どこで出産したのでしょうか?)
私は高校3年のとき男女を通じて古文で最低点を取り、担任の中石孝先生(現代国語の先
生でした。)に職員室に呼ばれました。(漢文も推して知るべしです、、、。)古文や漢文
の勉強は大事だなと思い知らされております、、、。(現役高校生の皆さん、大学受験に
必要な科目だけ勉強するなんて、そんな勉強はよしましょう!)
瀬川清子さんは秋田県鹿角市出身で、学校の先生をしながら柳田国男さんの民俗研究に
参加された方です。秋田県にはもうお一人、折口信夫さんのただ一人の女性の弟子の、
男鹿市舩川出身の穂積 生萩(ほづみ なまはぎ、澤木数枝 )さんもいらっしゃいます。
舩川は折口信夫最北端の地です。
瀬川清子さんの『女の民俗誌●そのけがれと神秘』(東京選書、東京書籍)は当時900円で
した。どうぞ、お買い求め下さい。
追記 この「待屋(たいのや)」を見て、京都山崎妙喜庵の茶室「待庵」を思い起こしま
した。この文章を読むまでは「人を待つ」から「待庵」なのかな?くらいにしか考えてな
かったのですが、利休は「産屋」の「待屋」から「待」の字をとって「待庵」にしたので
はないでしょうか?人は誰でも(世俗の武人だろうが)生まれたときは、赤ん坊だったのだ
よ、と言う利休のアイロニーなのではないでしょうか?
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