北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

中世のつづき

2014-11-11 05:38:57 | 日記
折口信夫の「中門は門付けをしたところ」の「門付け」は、近世以降の「門付け芸人」の

「門付け」ではありません。折口信夫は、田楽の演目の「中門口(チュウモングチ)」から

ヒントを得ていたようです。(能の演目にも「中門口」と言うのがあるようなのですが、

残念ながら、私は未見です。)ですが、田楽、千秋萬歳、能楽、は中世以降でしょうから

、それでは、それ以前の平安時代や古代ではどうだったのでしょうか?少し長くなります

が、中公文庫版、折口信夫全集、第一巻、古代研究(國文学篇)、國文学の発生(第三稿)、

門入り、から引用します。


  尊者の「門入り」の今一つ古い式は、平安の宮廷に遣って居た。大殿祭の日の

  明け方、神人たち群行して延政門に訪れ、門の開かれるのを待って、宮廷の巫女

  なる御巫(ミカムコ)等を随ヘて、主上日常起居の殿舎を祓うて廻るのであった。

  此神人ー中臣・齊部の官人を尊者と称することはせなかったけれど、祓へをすま

  した後、事に興った人々は、それぞれ饗應せられて別れる定めであった。かくて

  貴族の家々に中門(チュウモン)の構造が必須条件となり、中門廊に宿直人を置い

  て、主人の居処を守ることになる。平安中期以後の家屋は皆此様式で、極めて尊

  い訪客は、中門から車を牽き入れて、寝殿の階に轅(ながえ)を卸すことが許され

  て居た。武家の時代になると、中門が塀重門と名称・構造を変えて来たが、尚、

  普通には、母屋の前庭に出る門を中門と称へて来た。

          (文中、旧字を新字に直し、読み仮名もつけた箇所あります。)


この「神人」は、おそらく、中世以降、零落して「芸人」になる前段階の人々?でしょう

か?「宮廷の巫女」は「内侍」でしょうか?(「内侍所」と言う建物?部屋?が中門のすぐ近

くにあります。)「車」は「牛車」でしょう。 中世まで住居は「神人」を招き入れる?の

が大事な機能で、そのためには「中門」は必須で、「神人」と「巫女」は「中門」で、ど

のような所作(なにかしらの芸?)をしていたのでしょうか?「饗應せられて」いたのなら、

食べ物だけは困っていなかったのでしょうか?、「神人」と「巫女」は「中門」で、なに

かしらの所作なり芸?をしていたとしたのなら、招き入れた?人々は、どこからそれを見て

いたのでしょうか? (だいいち、その頃「観客」などと言う概念があったのでしょうか?)

もしかしたら、人々は一度、住居から出て(明け渡して)庭(ニワ)から見ていたのでしょう

か?(この場合の庭(ニワ)は現在の樹木の植わっている庭園としての庭とは、だいぶ意味合

いの違う可能性がありそうです、、、。現在の光浄院客殿は池が主体の「庭園」になって

いますが、これはおそらく後世のことで、本来は「お白洲」のような「庭(ニワ)」だった

かも知れないのです。)











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