北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

メディチ家礼拝堂(Cappella mediceo) その8

2015-11-20 12:28:36 | 日記
1979年、サン・ロレンツオ教会堂の地下?で、ミケランジェロが隠れていた(幽閉さ

れていた?)とされる小部屋が発見されます。(幽閉されていたのは15日間らしい。)





今は観光客にも公開されているみたいです。





ミケランジェロが、その15日間に壁に描いた絵のようです、、、。




ミケランジェロの新聖器室は、1521-34年の間の製作、設計、施工のようですが

(途中まで?)、どうもミケランジェロはローマ教皇レオ10世(1475-1521)?

に幽閉を解く条件で彫刻の制作と新聖器室の内部設計を「強要」されていたらしいのです。

(レオ10世は「強要」して、すぐに死んじゃった? ミケランジェロも新聖器室を最後まで

完成させないで1564年に死んでしまって、結局、最後に新聖器室を仕上げたのは

ジョルジョ・ヴァザーリetc、、だったようです。でも、もともとの新聖器室の建物自体

はブルネレスキの設計したもののような気がしますけど、、、。だから、この地下室も

ブルネレスキの設計、、、?)




『建築家が設計を「強要」される』って、一体どういう事なんでしょうか?当時の建築家と

パトロンの関係って、一体どうなっていたんでしょうか? 今に続く『建築家残酷物語』

(永島慎二さん)の始まりだったんでしょうか、、、?(日本でも千利休が切腹したのは

1591年なんですけど、、、。)



山川の世界史の高校の教科書でも、彰国社の西洋建築史図集でも、最初のうちは建築家の

名前は、あまり出てきません。パルテノン神殿のフィディアスPheidias、イクティノス

Ictinos、カリクラテスKallicrates 、アヤ・ソフィア寺院のアンテミウスAnthemiusと

イシドロスIsidoros、サン・ヴィターレ寺院のユリアヌス・アルゲンダリウスJulianus

Argentrarius、スレイマン一世のモスクのシナンMimar Shinan、パリのサント・シャペル

のピエル・ド・モントロPierre de Montreuil?、日本でなら浄土寺浄土堂の重源に、先ほ

どの千利休、あとは小堀遠州くらいでしょうか、、、? (大奥・棟梁の甲良筑前、中井

家文書の中井一族を『建築家』とするかどうかは難しいところか、、、?むしろ桂離宮の

八条宮智仁・智忠親王や、旧一条恵観山荘の一条昭良のほうが、よっぽど『建築家』?)





ブルネレスキとミケランジェロは15世紀以降になって、ようやく現れた独立した職業人

としての建築家の最初の2人だというのに、その片方のミケランジェロの建築家としての

最初の仕事の依頼のされ方が、『幽閉による強要』だったとは、、、。ミケランジェロは

建築家としてはついていなかったようです。新聖器室は、すでに躯体はブルネレスキによ

って完成していた建物の内部造作工事ですし、ラウレンツィアーナ図書館はサン・ロレン

ツオ教会堂の増築工事でした。それ以外の仕事も、ファサードだけだったり、中庭だけだ

ったり、広場だったり、門だったりのようなんです。建物全体のマスタープランの最初か

ら、最後の完成・竣工まで、全てをミケランジェロが設計・監理した建物ってあるんでし

ょうか、、、?



ミケランジェロはサン・ロレンツオ教会堂の未完のファサードのスケッチも残していて

(どうして、こんなものが残っているのか経緯は不明、、、。依頼なのか、自発的になの

か、はたまたやはり強要なのか、、、?)







木製の模型も残っています。






21世紀に入ると、ミケランジェロのファサードを実現させようという話もあるみたいで







どうなるかは判りませんが、サント・スピリト教会堂を設計して最後まで完成させて、

サン・ロレンツオ教会堂の最初の全体を設計した、お墓の下のブルネレスキはどう思うん

でしょうかねぇー、、、?




           メディチ家礼拝堂(Cappella mediceo)その9 につづきます。





追記  ローマ教皇レオ10世(1475-1521)に「?」マークつけました。いくら一族

    の長(おさ)が教皇とは言え、ローマとは別に、フィレンツェにはフィレンツェ

    のメディチ家の当主が居なければ、具合が悪いような気もして、、、。




追記の追記   木製の模型なんですけど、もしかしたらコンパニヨンcompagnonsの仕事

        https://www.atlasobscura.com/articles/compagnons-tiny-

        staircases-models

        かも知れませんね。



追記その3   地下室には幽閉されていたのではなく、当時、対立していたメディチ家と教皇派の

        追手から逃れるために、自ら隠れていたという話もあるようなのですが、いくら地下

        室とは言え、わざわざメディチ家のお膝元の、フィレンツェの街のど真ん中で隠れた

        りってあったんでしょうか、、、?















 




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