北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

だが、母は、

2014-10-09 15:52:33 | 日記
ありとあらゆる人と連絡を取り続ける。引揚げの経験からか、国家と言うものを信用して

いないのである。(たぶん、いちいち聞いて確かめたことはない。親子なんて、そんなも

の、、、。) 国家がなくなったとき、国家は何もしてくれない。(当たり前。軍隊は一番

先に逃げてしまう。)最後は個人しかない。「佐藤さん、あんた達は早く逃げなさい。」

と言って、母達を逃がしてくれたのは、昨日まで家で働いてくれていた、朝鮮の普通の

人達。(それでも祖父は、母達を先に返して、自分は朝鮮に残って、会社の人々の最後

まで見届けなければならない、、、。)博多に上陸しても、汽車の切符が手に入らない、

久留米の、それまで京城の家で、お手伝いさんをしてくれていた方の実家に、しばらく

転がりこまさせてもらう、、、。切符が手に入っても、今度は東京の戦災をのがれた家

は、すでに誰かが住み始めていて、住む家もない。しかたがなく、館山の、京城に来て

いた母の従姉妹の旦那さんの実家に、またしても転がり込ませてもらう、、、。

母の意識の中には、「人間いつどこで誰の世話になるかわからない。」という気持ちが

あるのだと思う。「情けは人のためならず。」どころではないのだ。生きるか死ぬかなの

である。

だから、母は連絡をとる。年賀状は欠かさない。(もちろん例の情報収集の意味もある。)

我が家は、昭和32~4年頃、函館に住んでいたのだが、その時お世話になった、お手伝い

の方が、今、函館のどこの老人ホームに入っているかまで知っている。函館に来ると40年

以上たっていても、会いに行く、、、。私は、運転手をさせられる、、、。

人に悪くするなどもってのほか、恨んでも恨まれてもいけない。日本人も朝鮮の人も同じ

、、、。いつ、どこで誰に助けてもらう事になるか、誰にもわからないのだから、、、。

早くに亡くなった祖母は、京城の家で、「この子は良い子で賢いから、、、」と、朝鮮の

お手伝いさんの女の子を、女学校まで上げてあげたという、、、。母は、その子と一緒に

女学校に通ったのである、、、。
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