北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

富貴寺

2015-01-05 05:02:08 | 日記
お正月で、おめでたついでに、なんとなく名前がよいので、、、


国東半島の富貴寺です。













似たような建物に、いわき市郊外の白水阿弥陀堂があります。










こちらは年代が特定されているようで、1160年のようです。富貴寺も、おそらく同じ頃と

おもわれます。(つまり、どちらも中世、平安時代の終わり頃。大分県と福島県で随分と

離れているんですけど、、、。)




実はこの両者では、僕は圧倒的に富貴寺が好きです。(いわき市の皆さんゴメンナサイ。

でも僕は設計士ですから仕方がないんです、、、。でも、白水阿弥陀堂は東北地方の福島

の、それも「浜通り」にあるだけでも、すばらしいんです。本当に凄い事なんです。)


富貴寺には「貴高さ」さえあります。


こんな建築はめずらしいです。近くに寄って、実際に見ていただくしかありません。確か

に、屋根の葺材の違いはあるにせよ、同じような形式・規模なのに、どうしてこのような

違いになったのでしょうか? 不思議でなりません、、、。


都から、遠く離れた「地方」で、一体、どのような大工集団が、これを作ったのでしょう

か? 近畿から、わざわざ来た大工でしょうか?「渡り大工」(そんな言葉があるのか知ら

ん?)の技術者集団でしょうか? それとも、ずっと国東半島にいて、九州から出たこともな

い大工さん達だったんでしょうか? 棟梁一人がどこからか来て、あとは地元の大工さん達

だけで、こんな事が起こったりするんでしょうか? 



富貴寺は、主要な柱に丸太の面(ツラ)の残っている柱が何本もあったように思います。

まるで、数奇屋のお堂なのです。地方で、財政が十分でなかったのかも知れませんが、

地元の材料で工夫して、それを跳ね返すかの如く、大工さんの技量が素晴らしいのです。

そして、「貴高さ」の高みにまで、達してしまっているように、私には見えました、、。


予算が潤沢にあって、いくら良い材料を使ったとしても、設計と大工さんが良くなければ

良い建物にならないのは、昔も今も同じではないでしょうか? (むしろ、ものを作る気持

ちがこもっていれば、材料は少しくらい良くなくてもいいくらいです、、、。)


瀬戸内海には重源も「勧進普請」に何度も来ていたようです。もともと「和船」の船大工

の高い技術があったのでしょうか?


函館の金森倉庫は、その外観が「居酒屋兆冶」などで有名ですが、



実は、内部はこうなっているんです。



柱と梁が木の根元の「あて木」を使って「木造ラーメン(柱梁一体構造)」になっているの

が判りますか?(「あて木」とは、山の北側の斜面の木の根元の部分などで、もともと曲が

って成長した部分の木のことです。) おそらく、この金森倉庫の棟梁は「和船」の船大

工の技術を判っていて、最小の材料で最大の空間を経済的に作る為に(しかも丈夫に、構

造計算も構造基準も無い時代に、経験と洞察で、、、)、工事の最初の段階で「あて木」

を手配して(普通は「あて木」なんて流通していません。山の中で探し出すしかないはず

なんです。)、段取りを組んだのだと思います。凄い大工さんです、、。



金森倉庫の内部は、現在その一部が、「金森ホール」と言う音楽ホールになっています。


(金森倉庫は、十勝沖地震でも、奥尻沖地震でも、構造的には致命的な被害は受けていな

いはずです。地盤もそれほど良い場所ではないはずですが、、、。杭も無い時代に、地盤

の補強などの地業はどう工夫してあったのでしょうか? 両地震で、被害を受けた昭和の

近代建築は、函館でも江差でも、いくつかはあったのですが、、、。構造計算が当時の

基準で適法に行われたと役所が確認した近代建築のはずなんですけど、、、。)






追記  Youtube見つけました。








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