北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

『産屋』の補足

2015-01-05 14:02:43 | 日記
このブログの最初の方の記事の「産屋」の補足です。

少し長くなりますが、網野善彦さんの「歴史を考えるヒント」(新潮選書2001年)より引用

します。


  しかし、日本列島に関しては、ケガレへの対処の仕方に列島東部と西部とで

  違いがあったことを明らかにした研究が行われています。それは考古学及び

  民俗学の専門家である愛知大学の木下忠氏の『埋甕』(雄山閣、1981年)に収

  められた論文で、産穢への対処を、「胞衣(えな)」(胎盤)の扱い方によって

  二つのタイプに分類しています。

  一つは、縄文時代から見られるやり方で、胞衣を竪穴式住居の入口の地面に

  埋めてしまいます。子供が赤子のうちに死んでしまった場合も同じ扱いをし

  ていたようですが、現在でも、胞衣をなるべく人が踏むことの多い場所に埋

  める習俗があります。戸口や、道が交差している辻にわざわざ持って行って

  埋めることまで行われています。こうした地域では、人に踏まれれば踏まれ

  るほど、赤ん坊が元気に育つという考え方があったと言われています。

  これに対して、住居から離れた場所に「産室」を設け、「産屋」を建て、そ

  の床下を深く掘って胞衣を埋めるというやり方をしている地域があります。

  とにかく、胞衣をなるべく遠くへ持って行って埋めることが重要であり、例

  えば室町時代の将軍家の場合は山中に埋めに行かせたりしています。

  木下氏はこの二つのやり方のうち、前者を縄文的、後者を弥生的と呼んでお

  り、前者はケガレに対して神経質ではなく、むしろおおらかであり、後者は

  敏感でケガレを忌避する傾向が強いと捉えておられます。



私の家族は、両親共に東北の出身なのですが、実家には私の生まれた時の「臍の緒」が

まだ、桐の小箱に入れてとってありますし、水上勉さんの小説に『桑の子』と言うのがあ

ったと思いますが(たしか群馬県の話、、、)、一体どうなっているんでしょうか? この

ブログの「追記の添付写真」の白黒の産屋の内部写真の「幣(ぬさ)」の地面の下には胎盤

が埋まっているのでしょうか?






レオナルド・ダ・ヴィンチの『聖アンナと聖母子』(ルーブル美術館)です。




聖アンナ(マリア様のお母さん)の足元(両の素足の間?)に、例の「臓物のようにも見え

る石ころ」があるはずなのですが、私にはコンピューターで拡大しても良く判りません。

「津軽 馬鹿塗り」の模様のように見えなくもない「石ころ」が確かにあるにはあるので

すが、それが血管もあって、臓物どころか「胎盤」まして「胎児」の一部かどうかなど、

とうてい判別出来るものではありません。(ルーブル美術館の修復作業は、どうなって

しまったんでしょうか? この絵についての「てんやわんや」は、林達夫著作集の第一巻

「芸術へのチチェローネ」を御覧下さい、、、。)



レオナルド・ダ・ヴィンチの「胎児」のスケッチです。



同じ16世紀初頭の頃、極東の島国では、「産屋」に「幣」を立てていたかも知れないので

す、、。そして、それは私達の、祖父祖母、曽祖父曾祖母の時代にも行われていたかも知

れないのです。つい、この間のことです、、、。(でも、それは日本人の日本人たる所以

、日本人の良いところなのかも知れないのですけれども、、、。)



追記  水上勉さんの小説『桑の子』は、上州の養蚕農家の桑畑の桑の木の根元に、生ま

    れたばかりの赤ん坊を「間引き」の為に埋めて、それでも這い上がって(土中か

    ら自力で脱出した)来た赤ん坊は、見込みがあるから育てるけど、その赤ん坊が

    後々、水上勉さんの『雁の寺』みたいに復讐劇を始めると言う様な、怖い話だっ

    たと思います。「間引き」の慣習は、日本人の物の感じ方や発想に相当な影響を

    及ぼして来たんでしょうね。キリスト教は「間引き」禁止のはずですし、、、。 












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