goo地図に明治の古地図というのがあったので、市ヶ谷監獄(左)と市ヶ谷監獄署(右)の部
分を拡大してみました。どちらも建物の配置はありません、、、。
左に『警視庁用地 東京監獄』とあります。警視庁は当時は内務省でしょうか?
右に『監獄署』とあり、これは『市ヶ谷監獄署』のことで、法務省でしょうか?
どうやら内務省と法務省の、明治政府初期の管轄の変遷と、もともと拘置所と刑務所が
別々でなかった(?)ものを、どちらをどちらがどう管轄するかが混乱してしまったのか、
今となっては判りずらくなってしまっている原因なのかも知れません、、、。
(今では拘置所と刑務所はどちらも法務省の管轄のはずで、警察署の留置場はもちろん、
全国の都道府県の警視庁または警察庁の管轄で、今に続く『代用監獄』などの悪癖・悪習
の元凶になった、明治初期の混乱と言う事になるんでしょうか、、、?)
無謀にも、年表を作ってみようと思います。 (Mは明治 Tは大正 Sは昭和)
左に寄せてあるのは 真ん中は 右に寄せてあるのは
市ヶ谷監獄または 一般的なニュース 伝馬町牢屋敷と市ヶ谷
東京監獄・市ヶ谷刑務所 など 監獄署の関連と言うこ
の関連 とにします
江戸幕府 江戸の伝馬町牢屋敷
・
1865年 パリのラ・サンテ監獄
が運用開始する
・
1868年 明冶維新・明治元年
M0
1870年 鍛冶橋に未決囚収容の
M3 監倉事務取扱所を設置
(今の東京駅の近く)
1871年 解放令(太政官布告)
M4
・ 解放令 明治4年8月28日
1875年 この年で伝馬町牢屋敷
M8 は使われなくなった?
・
・ 牢屋敷の跡地は買い手も引き取り手もなく
この図の左下空き地右下に大安楽寺など
のお寺が出来ただけ、、、?
1876年 鍛冶橋監獄署に変更
M9 警視庁・内務省に移管
1877年 西南戦争
M10
・
1879年 東京集治監(内務省)が 高橋お伝八代目山田浅右
M12 小菅に設置された(東京 衛門の弟吉亮により斬首
拘置所の前身) 刑とされるが、これは市
ヶ谷監獄ではなく市ヶ谷
監獄署ではないのか、、
、、?つまり1879年(明治
12年)までには、すでに
市ヶ谷監獄署は市ヶ谷に
あった、、、?
だとすれば伝馬町牢屋敷
から市ヶ谷監獄署への時
間的な連関は割りとスム
ーズになるんです、、。
・
高橋お伝 辞世歌
暫くも望みなき世にあらんより
渡し急げや三つの川守
1889年 M22 明治憲法(大日本帝国憲法)公布 これ以前に
法務省とか司法省ってあったんでしょうか、、、?
1903年(M36)までは、この状態のはず、、、
・
1903年 鍛冶橋監獄署が内務省
M36 (警視庁)から司法省
に移管されて東京監獄
と改称、市ヶ谷に移転
・
1903年(M36)~1910年(M43)の8年間のあいだ
東京監獄(市ヶ谷監獄)と市ヶ谷監獄署は並存
1910年 後藤慶二・豊多摩監獄 市ヶ谷監獄署は、この
M43 (中野)の建築開始 年まで市ヶ谷にあった?
1910年(M43)以降、右の市ヶ谷監獄署跡地は
払い下げになって宅地化されたみたいです。
・
1911年 大逆事件
M44
1915年 豊多摩監獄(中野)完成
T4
・ 東京監獄と同じく、パリのラ・サンテ監獄と同じ
パノプテコン・タイプで設計されているようです。
1922年 東京監獄を市ヶ谷刑務所
T11 に改称
1923年 大杉栄パリのラ・サンテ
T12 監獄に収容される
関東大震災・甘粕事件
1935年 巣鴨刑務所(旧巣鴨監獄)
S10 が府中市に移転し「府中
刑務所」となる
1937年 市ヶ谷刑務所(旧東京監獄)
S12 は巣鴨刑務所に移転
1945年 戦争に負けて巣鴨刑務所は
S20 巣鴨プリズン・東京裁判
1949年 市ヶ谷刑務所跡地の南1/3に
S24 東京都立小石川工業高等学校
が文京区林町より移転。
2010年より都立総合芸術高校
1983年 中野刑務所(旧豊多摩監獄)
S58 は廃止・閉鎖されて、後継
刑務所は北海道月形刑務所
後藤慶二さんの設計した旧豊多摩監獄表門
跡地の公園に保存されています。
伝馬町牢屋敷と市ヶ谷監獄 その11 につづく
追記 この年表は、あちこち訂正したり、追加で書き込みしたりするかも知れません。
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