北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

玄関と式台

2014-12-11 13:30:37 | 日記
今では、特に住宅の入り口は、普通に「玄関」と言います。ですが、これは禅宗のお寺の

方丈などの入り口の呼び名から来ているようです。おそらく室町時代くらいからで、一般

的には江戸時代から、そう呼ばれるようになったようです。




大徳寺大仙院本堂の「玄関」です



前に出た、園城寺光浄院客殿の東面です。



とってつけたような「唐破風」の入り口があります。まるで記号のようについています。

どうみても「後付け」にしか見えません。建築的な「納まり」として見ても、かなり無理が

あるように思えてなりません、、、。


「匠明」の図です。



じつはこれ、「主殿の図」と言う名前です。


右上に「色代」とあります。「色代」は、今で言う「式台」のことのようです。この建物、一体

、「唐破風」がなかったら、どこが入り口なのでしょうか? もちろん、偉いお坊さんや大事

なお客さん達と、身の回りの世話をするような人たちでは、出入り口も別々だったのでし

ょうけど、、、。それにしても不思議です、、、。(神様はどうなったのかしら?神様と

お釈迦様じゃ、上手くいくわけありませんよね、でも、それを摺り合わせたのが日本人

だったんでしょうけど、、、。)


大田博太郎さんの「書院造」(東京大学出版会1972年第二版)に、次のような記述がありま

す。少し長くなりますが、引用します。


   中世の一般の邸宅においては、なお引き続いて中門廊が、ごく短くはなりは

   したが、出入口としての機能を保持していた。その有様は『洛中洛外屏風』

   に描れた細川殿などをみてもよくわかる。この形は近世初期の書院造にも、

   そのまま引き継がれている。『匠明』の「主殿の図」にはごく短い中門廊が

   突出し、その東側の南端が扉、次が連子窓、その次(公卿座のところに当たる)

   に軒唐破風をかけ、扉を開いている。この立面は光浄院客殿でみることができ

   るが、これは寝殿造中門北廊の形をそのまま残したものであった。


その図版です。




次の記事の『洛中洛外図屏風』の細川管領邸の転写らしく、人物が省略されているようで

す。(でも「雲」があるので、違うかもしれません、、、。)




大徳寺大仙院本堂玄関の写真と図版は、大田博太郎「書院造」(東京大学出版会1972年第二

版)よりお借りしています。みなさん、お買い求め下さい。




   





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