地下鉄銀座線に「稲荷町」と言う駅があって、歩いて1分の同潤会東上野アパートの4階
に住んでいました。向いは、落語家の林家正蔵(彦六)さんの住んでいる長屋。彦六師匠の家は
両側が駐車場になってしまっても残っているようですが、同潤会東上野アパートの方は、
最近取り壊されてしまったらしい、、、。
寿湯(マンションの影で見えない。僕も良く行きました。)の文字のあたりに同潤会東上野アパートは
ありました。
落語はろー】情報交換の部屋さんのブログより
林家正蔵(彦六)さんの住んでいた長屋。
「寝言は寝て言うも~ん」さんブログより
その向かいが同潤会東上野アパートでした。
「寝言は寝て言うも~ん」さんブログより
4階の寿湯さん側(北側)のトイレ台所共用もちろん風呂なし6帖一間(月22000円)に住んで
いました。
下町は、あちこち徘徊しました。玉の井、洲崎、鳩の街、向島、、。洲崎は、永代通りから橋を
渡って、すぐ左側、むつ市出身の、川島雄三監督の映画「洲崎パラダイス赤信号」の町が、当時
はそのまま残っていました。と言っても、昭和33年じゃないから、建物がそのまま残っていただ
け、、、丸い柱には、お風呂場のタイルが何故か必ず張ってありました、、、。
カエル好きのページ https://minkara.carview.co.jp/userid/2537399/blog/39963824/さん より
浅草に行くと、六区(ロック)から、すきやきの「今半」のあるアーケードを、言問通りに
抜けて、すぐ右の、じいさんがやっていた「煮込み屋」でハイボールあけると、必ず、
千束(つまり吉原)をお散歩。今はどうか知りませんが、当時は、通りに面して「声掛け
おばさん(もしくは、おばあさん)」(我々、つまり僕と友達のI君は、そう呼んでいた、、。)
が、小窓と言っても、3尺×6尺くらいの窓から、「お兄さん、どう、好い娘いるわよー」と、
声を掛けてくれるのが嬉しくて、、、何度も何度も行きました、、。「すいませーん。」
冷やかしてもらうのが、楽しかったのです、、、。(あくまでも「お散歩」です、念の為。)
鳩の街は偶然見つけました。名前も、それまで知りませんでした。当時、すでに商店街に
生まれ変わっていて、それらしき建物が一本裏の路地に、あちこち残っているくらいでし
た。その商店街の中ほどに建築設計事務所がありました。
「卒業したら、こういう所で働きたいなー」
学校の教務部に行って成績証明書と、出席しなかった卒業式で受け取っていない卒業証書
をもらって、その事務所に行き、
「すいませーん、こちらで所員は募集してませんか?」
出てきた奥さんが
「あいにく、うちでは今は募集していませんがー、、、」
人生で、たった一度の就職活動でした、、、。
その設計事務所は、この図の「こぐま」さんの辺りにあったと思います、、、。
下町のおもてなし https://www.nippon.com/ja/views/b01103/ より
「こぐま」さんの5軒くらい先、保育園の入り口の手前に、今でも設計事務所があります、、、。
タイルの壁
往時の鳩の町
追記 洲崎の入口のアーケード
ポタリング犬@のポタ山イチさんのブログ
http://potadog01.blogspot.jp/2013/04/blog-post.html
江戸川ポタリングガイド より
アーケードの右下の奥の建物は当時まだ建っていたような、、、。
追記の追記
4階の寿湯側の22000円/月6帖間(右側のたたみの部屋。たしかに畳表の下はコルク
っぽかったです。)の、ずっと上野駅寄りの部屋が、僕が2年間住んでいた部屋でした。
もうひとつ
2′45″あたりから、建て変わった後の14階建てのマンション
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