Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

大学を出たら…

2008-06-09 23:52:59 | お仕事・勉強など
大学を出た後の進路で迷ってる。今に始まったことじゃないけども。

きょう、大学から帰るとき、先輩に呼び止められて(先輩と言ってもかなり年配のおじさんですが)、コーヒーをごちそうになったのだけど、そこでの話がどうやったら研究職に就けるか、ということだった。とにかく退路を断ってその道を突き進んだ人間は皆就職できている、とのこと。本当かなあ。かりに本当だとしても、迷わずに研究だけに人生を捧げようとするのはけっこう難しい。やはり相当厳しいから。おれの場合、健康も不安なので、迷うところはある。神経衰弱で心を病んでいるため(と書くとおおげさだけど)、読書がつらい。そういう状態だと、とても研究なんてできない。

じゃあ他の仕事はどうかというと、それもやっぱり難しい。結局おれなんかにはどんな就職先もないんじゃないかなあ。まずは病気を治すことが先決かもしれないな。でも治るのかなあ。ああ、お先真っ暗だ。

でもたまに、調子が良くて読書できる時間があると、うれしい。困難を経た今なら、新たな読書体験ができるんじゃないか、と(錯覚かもしれないが)思ってしまう。そういう時間に向かって、言おう、「時よとまれ、お前はいかにも美しい」と。

バタイユ「マダム・エドワルダ」

2008-06-09 02:20:15 | 文学
「マダム・エドワルダ」は非常に短い小説だ。そして難解だ。物語の大筋はマダム・エドワルダと呼ばれる娼婦との道行きなのだが、一方で神や意味の存在についての思索がある。語り手は「おれ」で、苦悩に支配されている。なんとなくドストエフスキーの登場人物を想起してしまうが、「マダム・エドワルダ」の場合、語り手は必ずしも卑屈ではない。地下室人のごとき肥大した自意識の持ち主というわけではない。ただ、娼婦に身を任せることからも想像できるように、溢れんばかりの性的な欲求を持ち合わせている。この作品は「官能小説」とひとくくりにすることもできる。だが、単なるそれではないのは、やはり意味や神を巡る哲学的な思索が随所に展開されるからだろう。「意味」を巡る思索というのは、フィクションの領域ではバタイユ以外も行っている。例えばチェーホフだ。彼は「三人姉妹」において、登場人物の一人に、「いま雪が降っています。それにどんな意味があります?」と言わせている。意味に関する会話の応酬の一つだ。「マダム・エドワルダ」の語り手は、「もし何物にも意味がなければ、おれの営みは無意味である」と言っている。世界の全てに意味があるとは限らないとしても、全てに意味がないとすれば、この世の中はなんと味気なく感じられるだろう。虚無的な思想はここに忍び寄る。だが、「解説」で言うように、「マダム・エドワルダ」が象徴的な手法で書かれているのだとすれば、この小説には意味が充満しているということだ。そうだとすれば、この小説は、内容に比して、いささか楽観的な形式を持っていると言わざるを得ない。本当に象徴的な手法と言えるかどうか、厳密に考えてみる必要があるだろう。

やや難解ではあるものの、「不潔で酔い痴れるような苦悩」といった形容、「切断された蚯蚓のように」といった比喩は見事で、目を引くものがある。また、訳文も格調が高く、流麗だ。おれもこのように訳せたらいいのだが…

ROOKIES(ルーキーズ)

2008-06-09 01:07:13 | テレビ
ドラマ・ルーキーズを見ている。漫画はジャンプで読んでいておもしろかったんだけど(未完のような形で終わってしまったのが残念)、ドラマもそれなりにおもしろいところはある。まあ漫画のほうが断然おもしろいとは思うけどね。

さて、前回の放映で、江夏役になんと上地が出てきた。けっこう驚いた。上地はヘキサゴンの印象が強くて、真面目な役(しかも不良)が務まるのかな、と心配になってしまうが、なんとなく笑ってしまうのはおれだけではないはずだ…来週どんな演技をするのか気になるところだ。ところで、上地ってもう29歳でしょ、それで高校生役って…どうなの?もっとも、あのドラマの高校生はほとんど高校生って感じじゃないけど。もう大人の俳優を使ってるからね。森田まさのりの漫画の高校生がだいたい老けてるから、まあいいんだけど。でもバイトが夜遅いと、ドラマ見られないんだよなあ。土曜にも働くことあるから。ああ嫌だ嫌だ。