酒井信『最後の国民作家 宮崎駿』(文春新書、2008)という本を読みました。出版されたてほやほやの本です。
最近は修士論文を書かなくてはいけないので時間がないはずなのですが、ちょっと暇なときに読んでしまいました。ぼくは読むのが遅い方なのですが、この本は特に難しいところもなく、すんなりと理解することができました。
とりあえず、この本にどういうことが書かかれているのか、その紹介。
宮崎駿の作品の特徴は、「現実感覚」と「時間的な奥行き」を与えるような「もの」「仕事」「風景」の描写にこそある。
「もの」というのは、例えば『ラピュタ』におけるロボット兵のような「もの」のことだが、そういう「もの」を一つ描くに当たっても、宮崎駿は、それを誰がどのような経済基盤で作り、それを必要とした文明なり社会なりはどのようなものだったかを、時間的な広がりの中で考えた上で描いている、ということだ。
「仕事」というのは、『千と千尋』における千尋の下働きの描写に、それが「冒険」であるほど、驚きや発見が織り込まれているように、普通は背景に追いやられてしまうような日常の仕事がきっちり意味を持って描かれているということだ。
「風景」というのは、人間と自然のせめぎあいの場である「町外れ」を、宮崎駿はその作品の舞台に据えてきたということだ。
そういう「もの」「仕事」「風景」に、宮崎駿は「現実感覚」を与えている。その「現実感覚」は、現代の日本が失ってしまったものだ。だからこそ、アニメーションの中でそれを再構築した宮崎駿は、「平成日本」を代表する「国民作家」となったのである。
以上が、だいたいの要旨です。著者自身が最後にまとめてくれているので、ぼくはかなり手抜きしてしまいましたが…。
ここで言われていることは、基本的には正しくて、というのも宮崎駿はその「現実感覚」を「リアリティ」という言葉で表現していることがあるからです。ちょっと使われている文脈が違うのですが、宮崎駿の頭の中には、作品に「リアリティ」を付与することの重要さが根付いているのだと思います。いま、ぼくは「作品」と一言で言ってしまいましたが、著者の酒井信さんは、それを「もの」「仕事」「風景」に下位分類して分析してみせたのだと思います。
ただ、この本には少し気になる部分もいくつかあります。それは冒頭から既に出現していて…「成長するにつれて面と向かうのが照れ臭く」なるのがジブリ作品だとこの著者は述べているのですが…というのも彼は1977年生まれの、ジブリが成長するのとほぼ軌を一にしている世代の人間で、それがその世代の人間の実感であると言うのですが…あんまりジブリにこだわりのない、宮崎駿にもこだわりのない人が、宮崎駿をテーマに本を書いて欲しくないなあ、というのがファン心理としてあるわけで…
ぼくはこの著者よりも少し下の年代の人間ですが、大人になってからジブリに面と向かうのって恥かしいかなあ…と考え込んでしまいます。まあ、たしかに、ジブリを真剣に考える、ということをする人間は大学にはほとんどいませんけどね(それははっきりしているのです)…
それとの関連で、『ポニョ』を「三十路に足を踏み入れた人間が映画館で一人で見るにはしんどいアニメ」と言い切っているところから推察するに、この人は本当にアニメーションというものから縁遠い人なんだなあと思わずにいられません。本を読めば、この人がよく勉強していることは分かりますが、そもそも一体何のために宮崎駿をテーマに本を書こうと思ったのか…それが見えてこないのです。現代の日本社会を、宮崎駿を切り口に見つめ直してみる、という趣旨のようなのですが、なぜ宮崎駿なのか…まあ、こんなことに拘泥するのは一部のファンだけだと思いますが、気になってしまって…
内容と関係のないところで字数を使いすぎてしまいました。
内容にも「なんで?」という点が幾つかありまして、その一つが、著者が「右」と「左」の思想に強く捕われている点。この両派の間の揺らぎの中で、戦中・戦後の日本のアニメは発展してきたのだ、と著者は強調し、「右」と「左」を「(友)愛」と「正義」と言い換えたりもします。しかし、宮崎アニメはその二項間の揺らぎから脱却しようとしているのだ、と結論付けるわけです。けれども、その前に、宮崎駿というのは実は「右」の価値観に根差した考え方をしている、などと言うわけです(宮崎駿がふつう「左」の考えの持ち主だと捉えられていることに反論しているわけですね)。「ここで重要なのは宮崎が「右」であるか「左」であるかを見極めることではない」と書いているわりには、そのことに非常にこだわっているのです。果たして日本のアニメーションの歴史を解明するのに、「右」だとか「左」だとかいう旧式の二分法が有効かどうか、疑問符をつけてしかるべきでしょう。
それから、人間の文明と自然との対立軸を、著者は宮崎アニメに導入して考えている、ということは要約のときに「風景」を説明する際に触れましたが、文明が浸透した自然を「奇形化した自然」と名付けているわけです。そこまではいいのですが、いったいどのキャラクターがそれを代表するのかというと、ちょっと首を傾げざるを得ません。まず、『ナウシカ』の王蟲。これはいい。では『魔女宅』のキキは?『紅の豚』はポルコ?『ハウル』はハウルだって?議論の余地がありそうです。
このようなところが気になりましたが、基本的な論旨は通っているので、それほど問題ではないでしょう。
新書ということで、手軽に読める本ですから、宮崎アニメの深い考察などは期待できません。そういうのが読みたい人は、『宮崎駿全書』を読むべし!
最近は修士論文を書かなくてはいけないので時間がないはずなのですが、ちょっと暇なときに読んでしまいました。ぼくは読むのが遅い方なのですが、この本は特に難しいところもなく、すんなりと理解することができました。
とりあえず、この本にどういうことが書かかれているのか、その紹介。
宮崎駿の作品の特徴は、「現実感覚」と「時間的な奥行き」を与えるような「もの」「仕事」「風景」の描写にこそある。
「もの」というのは、例えば『ラピュタ』におけるロボット兵のような「もの」のことだが、そういう「もの」を一つ描くに当たっても、宮崎駿は、それを誰がどのような経済基盤で作り、それを必要とした文明なり社会なりはどのようなものだったかを、時間的な広がりの中で考えた上で描いている、ということだ。
「仕事」というのは、『千と千尋』における千尋の下働きの描写に、それが「冒険」であるほど、驚きや発見が織り込まれているように、普通は背景に追いやられてしまうような日常の仕事がきっちり意味を持って描かれているということだ。
「風景」というのは、人間と自然のせめぎあいの場である「町外れ」を、宮崎駿はその作品の舞台に据えてきたということだ。
そういう「もの」「仕事」「風景」に、宮崎駿は「現実感覚」を与えている。その「現実感覚」は、現代の日本が失ってしまったものだ。だからこそ、アニメーションの中でそれを再構築した宮崎駿は、「平成日本」を代表する「国民作家」となったのである。
以上が、だいたいの要旨です。著者自身が最後にまとめてくれているので、ぼくはかなり手抜きしてしまいましたが…。
ここで言われていることは、基本的には正しくて、というのも宮崎駿はその「現実感覚」を「リアリティ」という言葉で表現していることがあるからです。ちょっと使われている文脈が違うのですが、宮崎駿の頭の中には、作品に「リアリティ」を付与することの重要さが根付いているのだと思います。いま、ぼくは「作品」と一言で言ってしまいましたが、著者の酒井信さんは、それを「もの」「仕事」「風景」に下位分類して分析してみせたのだと思います。
ただ、この本には少し気になる部分もいくつかあります。それは冒頭から既に出現していて…「成長するにつれて面と向かうのが照れ臭く」なるのがジブリ作品だとこの著者は述べているのですが…というのも彼は1977年生まれの、ジブリが成長するのとほぼ軌を一にしている世代の人間で、それがその世代の人間の実感であると言うのですが…あんまりジブリにこだわりのない、宮崎駿にもこだわりのない人が、宮崎駿をテーマに本を書いて欲しくないなあ、というのがファン心理としてあるわけで…
ぼくはこの著者よりも少し下の年代の人間ですが、大人になってからジブリに面と向かうのって恥かしいかなあ…と考え込んでしまいます。まあ、たしかに、ジブリを真剣に考える、ということをする人間は大学にはほとんどいませんけどね(それははっきりしているのです)…
それとの関連で、『ポニョ』を「三十路に足を踏み入れた人間が映画館で一人で見るにはしんどいアニメ」と言い切っているところから推察するに、この人は本当にアニメーションというものから縁遠い人なんだなあと思わずにいられません。本を読めば、この人がよく勉強していることは分かりますが、そもそも一体何のために宮崎駿をテーマに本を書こうと思ったのか…それが見えてこないのです。現代の日本社会を、宮崎駿を切り口に見つめ直してみる、という趣旨のようなのですが、なぜ宮崎駿なのか…まあ、こんなことに拘泥するのは一部のファンだけだと思いますが、気になってしまって…
内容と関係のないところで字数を使いすぎてしまいました。
内容にも「なんで?」という点が幾つかありまして、その一つが、著者が「右」と「左」の思想に強く捕われている点。この両派の間の揺らぎの中で、戦中・戦後の日本のアニメは発展してきたのだ、と著者は強調し、「右」と「左」を「(友)愛」と「正義」と言い換えたりもします。しかし、宮崎アニメはその二項間の揺らぎから脱却しようとしているのだ、と結論付けるわけです。けれども、その前に、宮崎駿というのは実は「右」の価値観に根差した考え方をしている、などと言うわけです(宮崎駿がふつう「左」の考えの持ち主だと捉えられていることに反論しているわけですね)。「ここで重要なのは宮崎が「右」であるか「左」であるかを見極めることではない」と書いているわりには、そのことに非常にこだわっているのです。果たして日本のアニメーションの歴史を解明するのに、「右」だとか「左」だとかいう旧式の二分法が有効かどうか、疑問符をつけてしかるべきでしょう。
それから、人間の文明と自然との対立軸を、著者は宮崎アニメに導入して考えている、ということは要約のときに「風景」を説明する際に触れましたが、文明が浸透した自然を「奇形化した自然」と名付けているわけです。そこまではいいのですが、いったいどのキャラクターがそれを代表するのかというと、ちょっと首を傾げざるを得ません。まず、『ナウシカ』の王蟲。これはいい。では『魔女宅』のキキは?『紅の豚』はポルコ?『ハウル』はハウルだって?議論の余地がありそうです。
このようなところが気になりましたが、基本的な論旨は通っているので、それほど問題ではないでしょう。
新書ということで、手軽に読める本ですから、宮崎アニメの深い考察などは期待できません。そういうのが読みたい人は、『宮崎駿全書』を読むべし!